徒然なれど薑桂之性は止まず㉑ 労戦統一の余話(その2)

最終的には大半の産別組織が労働戦線統一に参加したが、参加にあたっての組織内合意を得るのに難渋し、組織内分裂に至った。一部が統一の流れから外れる産別や統一に参加する前に他産別と合併し、合併後の組織で統一に参加したりする産別があるなど、統一に参加を表明するまでに紆余曲折を経た産別もいくつかあった。
労戦統一に参加する・しないをめぐって、「統一推進会(統一準備会)」で整理した「労働戦線の基本構想」の中に労戦統一に反対する組織・グループ等の参加は認めない旨が書き込まれていたこともあり、「基本構想」が掲げる条件、例えば国際労働運動では国際自由労連に一括加盟という考え方に異を唱える組織・グループは統一に参加できないなど、「基本構想」のハードルを越えられないというケースなどが見られた。
労働戦線統一と「連合」の結成の結果、統一時の「連合」加盟の組合員は800万人を超え、新生「連合」運動の糾合力への組合員の期待には熱いものがあった。

「顔合わせ」から「力合わせ」へ

労働戦線統一をめざすと言うものの異なるナショナルセンターに分かれて活動してきた産別間の交流はほとんどなかった。産別間融和のためにはお互いの顔も知らないでは始まらない。「統一推進会」の議論を通じて統一の理念・課題の整理、統一推進のための進め方・段取り等を確認していくと同時に、統一に前向きな産別間で「顔合わせ」から始めようという気分が生まれ、「統一推進会」も「産別間融和や良し」としてその促進の後押しがあった。特にとりまとめ役を務めていた全民労協事務局長であった山田精吾さんが「顔合わせ」の産婆役を務めることもあった。
例えば、私もゼンセン同盟の書記長を務めていたが、他産別、特に旧総評系の組織とは親しい付き合いはなく、同じ市ヶ谷に本部事務所を構える自治労とは市ヶ谷界隈の居酒屋で鉢合わせすることもあったが知らない者同士話をすることもない、といった関係であった。
その自治労の機関紙「自治労新聞」で当時の自治労佐藤書記長と髙木の二人の対談の模様を掲載するという話があった。対談の場所は自治労本部。どんな内容の対談だったかは忘れてしまったが、いろいろ気を遣って話したという記憶が残っている。その後、佐藤書記長とは「やあ、やあ」と声を掛け合う関係になった。とりあえずの「顔合わせ」のレベルには達したが、しばらくの間は、お互いに気を遣いながらのお付き合いを続けるということだろう。
他産別との関係も、組織と組織の関係や、専従者を中心に組織と個人を交えたインフォーマルの関係など、重層的に構築されていく。そして、たゆまぬステップである統一後の「連合」の運動への求心力の源泉になる。

政党との関係と労働戦線統一

労働組合のナショナルセンター、特に総評・同盟はそれぞれ社会党(社民党)、民社党を支持した。支援政党が異なるが、労働戦線統一によって労働組合の側が理念・政策を共有するようになったことを背景に、政党にも合併等による統合を求めるムードを醸し出した。その後、村山内閣誕生後の安保条約と自衛隊との関連等に関する基本的な理念・政策の変更などにより社民党が組織的に衰微し、そして民主党の結成と「連合」の支持・支援政党化の流れが、2009年の民主党政権誕生へ繋がっていく。
その後、「希望の党」をめぐる騒動や、旧民主党の立憲民主党・国民民主党への分裂など、「連合」加盟組織の中も支持政党を異にするギクシャク感が生じた。旧労働4団体時代の支持政党の違いがナショナルセンターを異にする分裂・分立の再来かと懸念する声もある。しかし、労働戦線の統一のために費やされた労苦を思う時、分裂などの安易な選択は許されるわけがない。

(2024年12月5日号掲載)

執筆:髙木剛氏(連合顧問) 髙木氏のプロフィールとその他のコラムの内容はこちらをご覧ください。

おことわり

髙木剛氏は2024年9月2日に逝去されました(80歳)。謹んで哀悼の意を表します。本連載については、筆者より寄稿頂いた原稿(全22回)を最終回まで掲載してまいります。

関連するコラム・寄稿