第3回 名目回復の陰で続く実質停滞 野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト 木内登英氏

連載「経済の転換点を読み解く」③ 名目回復の陰で続く実質停滞

野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏は生産性新聞「経済の転換点を読み解く」のインタビューに応じ、日本経済は「失われた30年」から大きく抜け出していないとの見方を示した。名目回復と実質の停滞のギャップなどについて聞いた。

名目指標は急拡大

木内氏は「物価や賃金、株価、地価など日本経済を巡る指標がこの数年で大きく動き始めている」と述べ、とりわけ物価と賃金は約30年ぶりの上昇局面に入り、長く続いたデフレから脱したとの見方も広がっていると指摘。企業の収益環境も改善し、株価は歴史的な高水準に達しているとした上で、こうした変化を背景に日本経済が新たな成長段階に入ったのではないかとの期待も高まっているとした。
一方で、名目の数字が動いていることと経済の実力が高まっていることは必ずしも同じではないとし、日本経済が本当に転換したと言えるかどうかについては慎重な見方も多いとの認識を示した。株価や賃金、地価は名目の数字だと説明。これに対して、経済の実力を測るうえで重要なのは実質成長率や実質賃金、労働生産性などの指標であり、こうした実質指標を見ると、日本経済の改善はまだ限定的だとの見方を示した。特に家計の生活水準に直結する実質賃金は長い間伸び悩んでおり、多くの人が生活の豊かさの回復を実感できる状況には至っていないと分析した。

実質賃金改善は限定的

春闘では比較的高い賃上げ率が続いているが、その多くには定期昇給が含まれると説明。これを除いたベースアップはそれほど大きくなく、中小企業まで含めれば賃金の伸びはさらに小さくなるとした。その結果、賃金の上昇が物価上昇を上回り購買力を高めるという本来の好循環は、まだ十分に生まれていないとの認識を示した。
現在の物価上昇の要因にも言及。景気がよくなり需要が拡大することで物価が上昇する場合には、企業収益や賃金も伸びやすいと説明した。一方で今回の物価高は、円安による輸入価格の上昇が大きな要因となっているとし、こうしたコストプッシュ型のインフレは企業や家計の負担を増やしやすく、経済全体の好循環にはつながりにくいとの見方を示した。とりわけ家計への影響は小さくなく、食料品やエネルギーなど生活必需品の価格が上昇すると、所得の低い世帯ほど負担が重くなるとした。平均的な個人消費は大きく落ち込んではいないが、生活費の上昇によって支出を抑える家庭も増えているとみられると指摘。雇用環境が比較的安定していることが消費を下支えしている面もあるが、消費の実態には世帯間の差が広がっている可能性があるとした。

円安、家計には負担

木内氏は「株価の上昇も日本経済全体の改善をそのまま示しているわけではない」と述べ、円安は輸出企業の収益を押し上げるため株式市場にはプラスに働くが、輸入物価の上昇は家計や内需型企業の負担を増やすと指摘。「株価が上昇していても国内経済のすべての主体が恩恵を受けているわけではない」と話した。
金融政策は依然として緩和的な環境が続いているとし、長年の金融緩和の影響により、日本経済は金利変動への反応が弱くなっているとの見方もあると説明。低金利は金融市場には影響を与え続けるが、景気を大きく押し上げる力は以前ほど強くないとの認識を示した。
日本経済が本当に転換したと言えるかどうかは今後の実質賃金と生産性の動向にかかっているとし、企業の投資が拡大し、生産性が高まり、その成果が賃金として分配されるという流れが生まれるかどうかが重要だと強調。「名目の数字だけではなく、実質的な所得の増加を伴うかどうかが、日本経済の将来を左右することになる」と語った。


企業が投資を行い、生産性を高める環境を
野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト 木内登英氏インタビュー

”木内登英氏
木内登英 野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト

賃上げや株高を背景に日本経済は本当に変わり始めたのか。野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏インタビューの詳報は次の通り。

木内登英 野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト

木内登英(きうち・たかひで) 1987年に野村総合研究所に入社。日本経済や金融政策の分析に従事する。野村證券で経済調査部長などを歴任。2012年から2017年まで日本銀行政策委員会審議委員を務めた。退任後は野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストとして、日本経済や金融政策などの分析や情報発信を行っている。著書に『異次元緩和の真実』など。

名目と実質の違いとは

物価が上がり、賃金も上がり、株価も高い。長く続いたデフレが終わり、新たな経済の局面に入ったという見方である。確かに表面的な数字を見ると、そうした印象を受けるのも無理はない。しかし私は、日本経済の本質が大きく変わったとは、まだ言えないのではないかと考えている。
その理由の1つは、名目と実質の違いだ。株価や賃金、地価などはすべて名目の数字であり、物価が上がれば、これらの数字は自然と大きくなる。つまり数字が動いているからといって、経済の実力が強くなったとは限らない。経済の実態を把握するには、実質成長率や労働生産性、実質賃金といった指標を確認する必要がある。
特に重要なのは実質賃金である。人々の生活を左右するのは、賃金の額面ではなく購買力だからだ。賃金が上がっても、それ以上に物価が上昇すれば生活は楽にならない。日本では長い間、実質賃金の伸びが弱い状態が続いてきた。これは日本経済の構造的な課題の1つといえる。

企業は付加価値向上を

その背景には生産性の問題がある。企業がより高い付加価値を生み出すことができなければ、賃金を持続的に引き上げることはできない。政策によって賃上げを促すことは可能だが、それだけでは限界がある。企業が投資を行い、生産性を高め、その成果が賃金として分配されるという流れが必要だ。
現在の物価上昇も、日本経済の構造的な弱さを映している。本来、景気が強くなると需要が増え、物価が上昇し、企業収益や賃金も伸びるという好循環が生まれる。しかし今回の物価高は、円安による輸入価格の上昇が大きな要因となっている。国内需要の強さというより、外部要因によって物価が押し上げられている側面が大きい。


エネルギー価格や食品値上げへの懸念

家計への影響は決して小さくない。食料品やエネルギーなど生活必需品の価格が上昇すると、所得の低い世帯ほど負担が重くなる。平均の消費データを見ると、消費は持ちこたえているように見えるが、実際には生活費の増加によって支出を抑えざるを得ない家庭も多いだろう。家計の中で節約が広がれば、消費は弱くなり、経済全体の成長にも影響する可能性がある。

二極化する経済への不安

株価上昇についても慎重に見る必要がある。株式市場は企業の収益環境を反映する。円安になると輸出企業の利益が増えやすくなるため、株価にはプラスに働く。しかし家計にとって円安は、輸入物価の上昇を通じて生活費を押し上げる要因になる。つまり企業にはプラスでも、家計にはマイナスという構図が生じる。そこに経済の二極化が現れているとも言える。
金融政策も日本経済に大きな影響を与えてきた。日本銀行は長い間、大規模な金融緩和を続けてきた。これはデフレ脱却を目指した政策であるが、その結果として金融市場には大きな影響が残った。一方で、低金利が続いても景気が力強く回復するわけではないという現実もある。日本経済は成熟した経済であり、金融政策だけで成長率を大きく引き上げることは難しい。
財政政策についても議論がある。積極財政を進めれば経済は成長するという考え方もあるが、日本の財政はすでに非常に大きな債務を抱えている。国債の発行残高は国内総生産(GDP)の2倍以上に達しており、将来世代の負担をどう考えるかという問題もある。
財政の問題は、単に危機が起きるかどうかだけではない。国債は将来の税収を担保にした借金であり、現在の支出を将来の世代が負担する構造になる。世代間の公平という観点からも重要な問題である。また政府債務が増え続ければ、企業が将来の税負担を懸念し、国内投資に慎重になる可能性もある。

供給側の改革必要

では、日本経済が本当に良くなるためには何が必要だろうか。私はやはり、成長戦略が重要だと考える。政府が需要をつくるという発想ではなく、企業が投資を行い、生産性を高める環境を整えることが必要だ。
労働市場の改革、人材の移動、少子化対策、外国人材の活用、地方経済の活性化。こうした政策は地味で時間もかかる。しかし潜在成長率を高めるためには、こうした供給側の改革を着実に進めていくしかない。
残念ながら、これをやればすぐに経済が良くなるという政策は存在しない。金融緩和だけでも、減税だけでも経済は簡単には変わらない。短期的な数字に一喜一憂するのではなく、長期的な視点で経済政策を考える必要がある。
日本経済は確かに変化の途中にある。しかし本当に重要なのは名目の数字ではなく、実質的な豊かさである。賃金の購買力が高まり、人々の生活が安定し、企業が将来に期待を持って投資できる。そうした状態になって初めて、日本経済は本当の意味で転換したと言えるだろう。

実質賃金上昇率の推移

◇ 本連載では、専門家へのインタビューを通じ、経済の「現在地」と今後の展望を多角的に検証し、次の成長戦略を探る。


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