徒然なれど薑桂之性は止まず⑳ 労戦統一の余話(その1)
国際労働運動は労戦統一の喉に刺さった棘
1989年の秋、労働界の悲願であった労戦統一が果たされた。終戦直後に爆発的に結成された日本の労働組合も激動・波乱の昭和20年代を経て落ち着き始めたが、各々時を同じくして労働戦線分裂によるナショナルセンター間の対立と力の分散による運動展開力の弱さという悲哀に苛まれた。そうした思いの広がりのもと、労働戦線の統一が必要だという願望が芽生えてきた。
この流れの中で宝樹論文(宝樹文彦元全逓委員長、労働戦線統一を呼びかけた文章)が発表され広く共感を得たが、具体的な戦線統一にまで至らず、その後も統一をめざす努力が続けられた。昭和40年代に入り、「統一推進会」における議論を経て労戦統一をはかるに当たっての理念、統一への道筋が合意され、1987年に民間先行の統一、1989年官民統一が実現した。
一連の労働戦線統一に向けての努力で最後まで喉に刺さった棘のように合意形成に難渋したのが、運動路線・イデオロギーに係る対立、すなわち国際上級団体の関係であり、国際自由労連(ICFTU)との繋がりを持つ産別と、WFTU(世界労連、ソ連・コミンテルンと同根の国際労働団体)に親近感を持つ産別間の国際労働運動との関係をめぐる違和感の問題を解きほぐすのに思った以上の時間がかかったことだ。結局、国際労働運動との関係が「国際自由労連を指向する」ということになったが、世界労連との関係にノスタルジアを感じる産別もあったと思う。
世界労連は、第2次大戦後の東西対立の中で、ソ連の影響を受け労働運動と共産党との関係で親和性を追求し、世界労連のコミンテルン指向に反対した自由主義経済各国の労働運動が世界労連から離れ、国際自由労連を結成。時あたかも米ソ対立、東西冷戦の真っ只中、国際労働運動も国際自由労連・世界労連対峙の時代が続いた。
日本でも国際自由労連加盟と世界労連指向の組合が対立・並存し、そうした流れの中で総評・同盟・中立労連・新産別の労働団体が並存する時代の背景となった。
激動の国際政治に揺さぶられる国際労働運動
この国際労働運動との関係は、労働運動と国際政治との関係、例えばベトナム戦争への対処の仕方の違いなどを生じ、総評がカンパを集めベトナム人民民主共和国(北ベトナム)の労働組合を支援したのに対し、同盟はベトナムの南北対立から生まれるインドシナ難民の救援支援活動に取り組む等、平和運動が国際政治の東西対立における東側シンパサイザー的な動きなど総評と同盟の運動論の違いには顕著なものがあった。この違いを克服するのに総評・中立労連が苦労したのである。
結論を言えば、この国際労働運動との関連が最終的に整理されたのは、1989年の官民統一大会であり、国際自由労連一括加盟問題の決着を見たのである。
(2024年11月25日号掲載)
執筆:髙木剛氏(連合顧問) 髙木氏のプロフィールとその他のコラムの内容はこちらをご覧ください。
おことわり
髙木剛氏は2024年9月2日に逝去されました(80歳)。謹んで哀悼の意を表します。本連載については、筆者より寄稿頂いた原稿(全22回)を最終回まで掲載してまいります。