第2回 「ウェルビーイング」向上へ 2名の有識者にインタビュー
連載「生産性改革 Next Stage」②「ウェルビーイング」向上へ
生産性を巡る最前線の改革や今後の展望などを探る新連載「生産性改革Next Stage」は、経済的・社会的に人にとって好ましい状態を示す「ウェルビーイングと生産性」をテーマに、2人の識者がインタビューに応えた。経済社会システム総合研究所理事長(元内閣府事務次官)の松山健士氏はマクロ経済や政策のあり方について、健康いきいき職場づくりフォーラム代表で慶應義塾大学教授の島津明人氏は健康経営やワーク・エンゲイジメントについて語った。
無形資産投資や信頼関係が必要
経済社会システム総合研究所「KAITEKI研究会」などは2024年月、「百年の計はWell-Being(ウェルビーイング)にあり」と題した「提言2024」をまとめた。提言では、人々の幸福は「経済的な豊かさ」だけではなく、健康、信頼できる家族や友人、良好な自然・社会との関係など「社会的な要素」を含む「ウェルビーイング」によって左右されるとの見解を示した。そのうえで、「今後、個人、企業、政府(国・自治体)それぞれが、無形・有形資産への投資拡充や家庭、地域、職場における信頼関係の回復などに取り組む必要がある」と指摘した。
松山氏はインタビューで「ウェルビーイングの向上は、国民一人ひとりの価値観に関わる課題であり、国や地域で社会的合意を形成していくことが必要不可欠。重要性を増す無形資産への投資に関しても、企業間、企業と政府の共通認識を形成していく必要がある」と述べた。
ロシアによるウクライナ侵攻などに加え、自国第一主義の動きが強まる中、世界の持続可能性、ウェルビーイングは後退しかねない気配を示している。松山氏は「長い目で見るとウェルビーイングの重要性は増していく。今は逆行する動きを乗り越える正念場にある」と強調した。
「健康いきいき職場づくり」とは、職場のメンタルヘルスの一次予防(未然防止、健康増進)を発端とした人と組織の新しい枠組みとして、「働く人の心身の健康」を前提に、「働く人のいきいき」「職場のいきいき(一体感)」によって、個人の幸福と組織の生産性向上を目指す活動だ。
島津氏はインタビューで「健康いきいき職場づくりフォーラムのような社会運動が大きな役割を果たし、セーフティネットを中心とした産業保健の活動と、生産性向上を目指す経営的な活動が歩み寄る動きが広がっている。健康経営やウェルビーイング経営はその潮流にある」と話す。
ストレスチェックが義務化されて10年になり、企業が働く人の体と心に配慮する機運が広まっている。次のステップとして、島津氏は「まずは企業が健康経営の対策の効果を検証すること。さらに、将来的には、企業の枠を超えて、複数の企業間や、地域のコミュニティぐるみで、個人のウェルビーイングを高める仕組みを考えていく必要がある」との考えを示した。
無形資産投資の拡充を
松山健士 経済社会システム総合研究所理事長(元内閣府事務次官)
GDP偏重から「国富」へ

(元内閣府事務次官)
日本だけではなく、世界的な傾向として、フローの指標であるGDPの動向に政治や国民の関心が集中し、結果として、持続可能性などの社会的価値や将来世代の利益は二の次になってしまっている。持続可能性を重視する観点からは、将来生みだされる価値の源泉となる種々の資産・ストック、国全体でみれば「国富」の動向により注目する必要がある。
近年、ウェルビーイングを生み出す資産として人的資本や知的資本などの無形資産の重要性が高まっている。また、少子化対策、子育て・教育、イノベーション、地球温暖化対策など国の重要な政策課題は実は無形資産投資と密接に関係している。
しかし、日本では、無形資産投資に対する制約が強い。まず、無形資産投資にとって必要不可欠なステークホルダー間の信頼関係の問題がある。例えば、企業と従業員の信頼関係は効果的に人的投資を進めるための前提条件であるが、90年代以降、その信頼関係は弱まってきたとみられる。
また、日本では企業による自然や社会への貢献に対する市場の評価が、米国やドイツに比べ低いとされる。さらに、設備投資などに比べて不確実性の高い無形資産投資を支えるべきリスク性資金の供給も米国などより圧倒的に少ない。
これらの制約のため、これまで日本の無形資産投資は低迷し、マクロ経済面でも、貯蓄と投資を均衡させる「自然利子率」の低下、さらには「長期停滞」の大きな要因になってきたと考えられる。
これらの点を踏まえ、政策決定や企業経営の判断基準として無形資産投資をより重視すべきである。しかしながら、現状では無形資産に関する政府の統計整備や企業の情報発信は十分ではない。これらの点の改革は今後の重要な課題と考えられる。
世界のウェルビーイング向上へリーダーシップを
「持続可能な成長と分配」は、政府、企業、労働組合いずれにとっても重要なテーマとなっている。そして、本来の意味で持続可能性を実現するためには、付加価値生産性の向上と同時に自然や社会を持続可能にすること、すなわちウェルビーイングの向上が必要不可欠となる。
生産性という観点でも、従来は付加価値の生産性が中心に置かれてきたが、今後はウェルビーイングの生産性を重視すべきだ。ただし、主観的要素を含むウェルビーイングを包括的に示す指標はない。このため、ウェルビーイングを生み出す無形資産等への投資額をインプットと捉え、アウトプットには付加価値だけでなく健康、信頼関係、CO2排出量等のウェルビーイングに関する個別指標を位置づけ、両者の関係から生産性を評価することが重要になる。
無形資産の中でも重要な人的資本の生産性には「能力」と同時に「意欲」が大きく影響する。日本人の「能力」は高いが、「意欲」は低いという調査結果が多い。職場での信頼関係の向上や生きがいの重視などの取り組みにより生産性を高める余地は大きいのではないか。
今後、政府はウェルビーイングの向上を目標と位置づけ、無形資産の統計整備を進めるとともに公的な投資を拡充していく必要がある。企業は自らに最も期待される分野でのウェルビーイング向上を目標として、ステークホルダーとの信頼関係の下で無形資産投資に取り組んでいくことが期待される。
今、ウェルビーイング向上への取り組みは逆風に晒され、世界の多くの国や企業は困惑している。しかし、自然や社会の持続可能性に貢献する無形資産投資は経済的価値の成長にも大きく寄与することを忘れるべきではない。ウェルビーイングの向上に向け、日本が世界をリードしていくことを期待したい。
働くことが喜びとなる社会に
島津明人 慶應義塾大学教授インタビュー
低い日本のワーク・エンゲイジメント

働く人たちが自分の仕事に誇りを持って、主体的にかかわっていきいきしている状態をワーク・エンゲイジメントと言うが、それを高める対策に関しては、様々な研究が進められている。
例えば、個人に向けた対策では、自己効力感やレジリエンス(粘り強さ)を高めていく方法、マインドフルネス(現在起こっていることに注意を向けること)、ジョブ・クラフティング(自分の仕事を工夫しながらやりがいを高める)などが有効と言われている。
一方、組織に向けた対策では、「互いに尊重し合う人間関係を作っていこう」という対策が有効なのではないかと言われている。 日本人のワーク・エンゲイジメントが低い理由の一つに、採用形態も含めた日本の企業風土がある。会社に入り、長時間労働に耐え、会社が「黒」と言えば、「白」と思っていても「黒」と言う。様々な試練に耐えて、やっと昇進できたとしても、「いきいきした状態」とは程遠い。
また、「前向きな気持ちを表現しづらい」「表現するのがためらわれる」といった感情や、出る杭が打たれてしまうという風土も関係しているのかもしれない。
一方、OECDの幸福度に関する経年変化の調査では、コロナ禍で他国の幸福度が下がる中で、日本では上がる傾向がみられた。他国が自由を喪失して幸福度を下げたのに対し、日本人は「生きているだけでありがたい」と感じる引き算の文化があり、幸福度を押し上げたのかもしれない。
幼少期の教育や生まれ育った環境も影響しているのではないか。日本人は人の目を気にして、常に周囲に迷惑をかけないように振る舞う。オランダとの比較実験で、電子メールでやり取りするときに日本人は目の表情の絵文字を使うが、オランダ人は口の絵文字で表現することが多いという。周囲の目を気にする気質が日本の風土として浸透しているのかもしれない。
これは、良い面と悪い面がある。周りに配慮して行動するのは、物事をスムーズに進めるのに役立つが、行き過ぎると葛藤が起こる。折り合いをどうつけるかが課題だ。
企業や組織が果たす責任
企業のハラスメント問題が取りざたされているが、働く人が少なくなる中で、誰かを犠牲にして、企業を存続させるような経営は長続きしない。ウェルビーイングは経営と健康に加え、人権が重要になっている。一人ひとりを大切にすることが大事だ。
人、組織、企業、社会があるなかで、企業は自社の社員だけではなく、社員が暮らすコミュニティも含めた社会全体でのウェルビーイングをどう考えるかが問われている。
首都圏も含めた大都市に企業が集中し、人の流れも大都市圏中心で、地方のコミュニティの基盤が揺らいでいる。企業とコミュニティがどうつながるのかについても考える必要がある。
今春、新入生に私の授業の受講動機を尋ねると、「より多くの日本の労働者が、働くことが喜びとなる社会をつくりたい」と書いた学生がいた。意欲に満ちた学生たちを育て、社会に送り出すことが私たち教育に携わる者の責任であり、企業にも、そのバトンをしっかり受け継いでいただきたい。
人間は、親和性、有能感、自律性という内発的動機付けを生む3つの欲求を持っている。テレワークでつながりを失い、SNSでキラキラした成功体験を見せられて、自分を「ダメな人間だ」と感じやすい世相だからこそ、リアルの場面で等身大の成功体験を積み重ねることが重要になっている。企業や組織の人材育成の現場は、この3つの欲求を満たせる仕掛けをつくることが求められている。
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