第1回 新技術への挑戦が今こそ重要に 宮川努 学習院大学教授
連載「生産性改革 Next Stage」① 新技術への挑戦が今こそ重要に
学習院大学教授の宮川努氏は「生産性改革Next Stage」のインタビューに応じ、生産性の基本に立ち返ることが重要との認識を示した。日本経済は、コロナ禍を経て、物価上昇や保護主義の台頭、地球温暖化対策の後退などの懸念が強まっている。宮川氏は「オイルショックの時、この国の先人たちは、新しい技術に果敢に挑戦することで生産性を高めた。世界経済が新しいステージに入った今こそ、基本に忠実に、生産性を高める努力を進めるべきだ」と述べた。
激変する世界、生産性の基本に返ろう
日本経済は、失われた30年やコロナ禍を経て、デジタル化の遅れなど供給力の脆弱性を浮き彫りにした。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻を契機に世界的なインフレが進み、その荒波は長くデフレ経済に陥っていた日本にも押し寄せている。
政府の掛け声で始まった賃上げの取り組みは、すでに3年目に突入したが、全体では、本格的な実質賃金の上昇には繋がっていない。宮川氏は「政府と労働組合、企業が相談して、物価上昇分を補填しているだけでは、生産性の向上とは言えない」と警鐘を鳴らす。
実質賃金の上昇は、企業が新製品や技術革新のために投資をし、成功して生み出した収益が労働者に分配されることによって起こる。宮川氏は「インフレに対応して企業は価格を上げており、経済環境が変わって需要が増えていると判断するなら、国内で設備投資やデジタル投資、人的資本投資など積極的に投資することが重要だ」と指摘する。
トランプ米大統領は、連邦政府のDEI(多様性、公正性、包括性)プログラムを終了する大統領令に署名したほか、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」を再び離脱する方針を示している。米国の大手企業の中には多様性重視の看板を下ろすなど、政府の方針に足並みを揃える姿勢を見せている。日本をはじめ、世界の企業が注目してきたSDGsの理念が宙に浮く恐れもある。
これに対し、宮川氏は「1970年代のオイルショックでは、鉄鋼業や自動車産業を筆頭に、日本企業は省エネ・省力化技術の開発に挑んだ。『規模の大きな米国企業がやらないことをやっても無駄だ』と言われたが、結果として、その技術革新が1980年代の成功に繋がった」と振り返る。脱炭素など地球環境の持続可能性を実現する新技術開発は、引き続き重要になるとの考えを示した。
内外ともに歴史的な転換点にあたる2025年、日本生産性本部では、第2期生産性常任委員会を発足させ、65周年以来となる第2回「生産性白書」の公表へ向けた議論が行われている。宮川氏は第1期に引き続き、生産性常任委員会委員として議論に参加している。宮川氏は「65周年の生産性白書の議論では、工場レベルでの物的労働生産性から、企業レベルでのアイデアも含めた全体としての生産性まで、さらに社会のあり方も見通すような議論にまで拡大したことは大変勉強になった。世界が大きく変わっても、生産性を上げるのは投資であり、技術革新への挑戦であるという基本は変わらない。今回も活発な議論をしていきたい」と話した。
人材・デジタルを含む包括的な投資で生産性改革を加速
宮川努 学習院大学教授 インタビュー詳報
日本経済における生産性の必要性については、21世紀の初めから指摘されていた。日本生産性本部前会長の牛尾治朗氏が見抜き、その頃から、私も関わらせていただいた。現会長の茂木友三郎氏も積極的に生産性運動を説いた。65周年の節目で「生産性白書」を出したのは、茂木会長の熱意の表れだと思っている。
ただ、残念ながら、2000年代から2010年代にかけて、生産性改革が必要とされている時に、社会には改革の概念がそれほど浸透しなかった。コロナ禍でデジタル化の遅れが認識され、生産基盤の脆さが浮き彫りになったことで、生産性に注目が集まるようになった。現在の苦境は、やるべき時に生産性改革を実践してこなかったツケであり、今後は、同じ過ちを繰り返してはならない。
2010年代に生産性改革に踏み出せなかった背景には、アベノミクスに代表される需要サイドの経済政策が強化されてきたことがある。金融緩和や財政出動を進めることが議論の中心になり、「これで経済が良くなる」と錯覚した。生産性の向上は供給サイドの改革によって実現できるものであり、それには自らの働き方を変えなければならない。金融緩和や財政出動で生活水準が向上すると言われれば、人々は安易な方を選びがちだ。
実際、2022年2月に起こったロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに世界的なインフレが起こった。2010年代、脱デフレを目指した政策で「インフレが起きたら経済は良くなる」という主張も見られたが、現実には実質賃金が下がって生活水準が切り下がり、税収だけが上がった。経済学者から見れば、これは当然の帰結に過ぎない。
企業も2010年代ごろから生産性向上に向けた取り組みを行うが、供給サイドの改革は時間がかかる。人材育成はそれが顕著で、人的資本投資は少し増えているが、今のような政府が企業のリスキリング対策費を補助する政策では限界がある。新しいスキルを身につけようと思ったら、働く人が自ら選んで、学校に通うなどの方法で自律的に学ぶことが重要で、政府はそういう人に直接補助すべきだ。
賃上げはインフレの後追い
大企業による賃上げムードが高まり、3年目を迎えたが、実質賃金は上がっていない。その理由は、今の賃上げが「インフレの後追い」に過ぎないからだ。実質賃金が上がるには、企業が新たな製品や技術を開発するために投資をして、従業員がスキルを向上させることが前提になる。その投資が成功し、収益が上がった場合、物価の上昇を上回って賃金として報われることで実質賃金の上昇につながる。
これまでと仕事の内容は変わらないのに実質賃金が上がることは考えられない。「物価が上昇しているので、名目の賃金を上げることで、生活に必要な資金を支給する」という賃上げは、日本経済の構造に何ら影響を与えるものではない。単に物価上昇分を補填しているだけで、生産性改革とは程遠い。
省力化投資、対応遅く
生産性を向上させるためには、一人当たりの資本の伸びが重要になる。実は2000年から計算すると、資本がほとんど増えていないのに、就労者の数は250万人増えている。つまり一人当たりの資本が減っている。日本全体でみると、高齢者や女性などの労働参加が増えており、企業はそれに対応して対人サービスを増やしている状態だ。
2010年代後半から人手不足が進んでいるのは分かっていたはずで、企業はもっと積極的に省力化投資を進めるべきだった。対人サービスを増やしながら、「人手不足」と嘆くのは矛盾している。
高度成長期には「日本経済はクリーピングインフレ(忍び寄るインフレーション)にある」と警戒が強まったが、結果として物価上昇を若干上回って、実質賃金が上がった。大手企業が「海外に追いつき追い越せ」で投資をして、それによって輸出を増やしたり、市場を拡大したりして、その収益を労働者に分配したからだ。
オイルショックの時には省エネと省力化で投資を積極的に進め、経済の安定成長を確保した。競争力を高めた結果、円高になり、実質的に世帯の所得水準が上がった。この時、「日本はすでに技術的にキャッチアップして、これ以上の技術革新ができないからゼロパーセント成長にある」と悲観的に見る向きもあった。その状況を克服できたのは省力化と省エネ投資を懸命に進めたからに他ならない。
公的部門のデジタル化急げ
人手不足の影響を受けやすい小売業や流通業は、チェーン展開する大手企業から、キャッシュレス決済の導入などの省力化投資を進めている。中小の商店にも同様の省力化投資が波及しつつあるが、残念ながら、高齢化などで営業を続けられない店舗もあり、ゆっくりと市場から退出していく動きが今後も起きるだろう。その一方で、中小の製造業はデジタル化の進展が遅い。資金力が乏しい中小企業にとって、先行して投資する経営判断は難しいから、高度成長期でも、大企業の投資に合わせて、その要求に追い付くために投資を急いだ。
今後も、中小企業が息せき切って投資をするためには、大企業の積極的な投資姿勢がトリガーになる投資連鎖が必要だ。大企業が積極的に投資をせず、古い設備を使い続けていると、中小企業が無理して投資をするモチベーションは生まれない。
産業界のデジタル化は今後も進むだろうが、コロナ禍でも明らかになった公的部門のデジタル化の遅れのほうが深刻だ。例えば、公的部門は民間企業に対し、様々な統計調査やアンケート調査を実施するが、これに対応するため、企業のバックオフィスは大変な手間を強いられる。現状は官公庁や自治体から、それぞれに質問に答えるように要求され、企業名や住所などの同じ情報を何度も書かなければならない。これを一つの質問状にまとめて、その回答をクラウドに上げて、それぞれの役所が必要な情報を取りに行くような仕組みがあれば、企業のバックオフィスの業務効率化は進む。
公的部門のデジタル化の比率は民間よりも低い。民間にデジタル化を促すことも大事だが、公的部門自身が、率先してデジタル化を進めるべきだ。人口減少が進む社会では、「デジタル化=省力化」は、官民問わずに生産性向上に不可欠だ。
貿易縮小も競争環境は混沌
米国では再びトランプ政権が発足し、関税政策による「製造業の復活」を掲げている。しかし、関税を上げることは供給サイドの改革には繋がらない。むしろ米国では、商品・サービスの企画力を高め、ファブレス(製造設備を持たず、生産を委託しているメーカー)で生産する方式が生産性向上の源泉になってきた。モノづくりの強さがまだ残る日本側の希望は、アイデアに優れた米国と力を合わせて日米トータルで生産性を上げようということだと思うが、米国にとっては、貿易相手国は日本だけではなく、思惑通りにならないかもしれない。
トランプ大統領の関税政策は、貿易の縮小をもたらし、中国だけでなく、米国も成長率を落とし、次の景気浮揚のエンジンがない状態に陥る恐れもある。米国以外の国との相対的な競争力には中国を除いて大きな変化がないので、円だけが米ドルに対して切りあがるような変化とは異なる。石油危機、プラザ合意後の円高と、日本は外からのショックには適切な対応を取ってきた。今こそ、技術や付加価値を高めて生産性を向上してこの難局を乗り越える努力が求められる。
- ※日本経済が「失われた30年」から変化しつつある中で、生産性改革の「Next Stage」はどうあるべきか。生産性運動70周年の今年、経済界、労働界、学識界の最先端の見解をもとに考えてみる。
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