コロナ危機に克つ:佐々木 毅 日本生産性本部副会長インタビュー
新型コロナウイルスの感染拡大が続いている。明るい選挙推進協会会長で日本生産性本部・副会長の佐々木毅氏は生産性新聞のインタビューに応じ、新型コロナウイルスの感染拡大によって、グローバリズムの危機を迎えた国際政治を展望し、日本の政治・経済が向かうべき方向性について提言した。
経済に重荷、政治の出番 第二波に備え「自粛」の検証を
100年前の教訓
今から約100年前に起こったスペイン風邪の流行と、今回の新型コロナウイルスの流行は、グローバリゼーションの帰結という観点で共通している。
第一次世界大戦の最中に起こったスペイン風邪は、戦争のために兵隊が世界中を移動するというグローバリゼーションの中、パンデミックを引き起こし、多くの人命を奪った。
新型コロナウイルスのパンデミックは、平和的な人間移動で起こった。戦時下か平和的な経済活動かの違いはあるが、両方とも「人間が人間にとって、最も危険で厄介なものである」という恐怖心を植え付けた。
こうした刷り込みから解き放たれ、自由になるのには時間がかかる。スペイン風邪は、第二波が最も深刻な被害をもたらした。今回も秋から冬にかけて、どういうことが起こるのか全く読めない。
ただ、100年前と大きく違うのは、人類のサイエンスの力が飛躍的に進化していることだ。
もちろん、ウイルスもクレバーになっているだろうが、100年間の科学技術の蓄積が勝る。人間の相互不信感を抑制し、または払拭するために、サイエンスが果たす役割は大きい。
棚ぼたのポピュリズム
国際政治に関して言えば、新型コロナウイルスの感染拡大がポピュリズムにとっては最後の一押しになった。排他的・排外主義的なことを唱えていた人たち、国境を閉ざそうとしていた人たちにとっては、感染拡大を防ぐために世界中で国境が閉じられたわけで、皮肉にも、ポピュリズムがニューノーマルになってしまった。
欧州連合(EU)のように、国境を開くことを大原則として、国際関係を構築してきた勢力にとっては、非常に切ない結果だ。国境の開放を進める方向に戻すことは難しい。
各国が入国規制を緩め、エアラインが自由に飛べるようになるまでに、どれだけのステップを踏む必要があるのか。また、パンデミックの第二波が到来した場合に再び国境を閉ざすことを含め、各国がどのようなコンセンサスを取るのか。いずれにしても、ブレーキとアクセルを交互に踏みながらの慎重な作業になる。マスクを融通し合う国際協力も必要だが、ヒトの動きを受け入れる国際関係を再構築することが本筋だ。
政治のリーダーシップ不在
パンデミックの震源地となった中国でサプライチェーン(供給網)が崩壊し、まずモノの流れが止まった。カネは動いているだろうが、それは中央銀行が金融緩和を加速させ、カネを大量に刷ってジャブジャブにしているに過ぎない。さらに、金融危機の影響を回避しようと、新興国から先進国への還流が起こっている。
新興国は、脆弱な医療体制に加え、資金の引き揚げによって経済的なハンディキャップを背負っている。パンデミックの波が新興国に押し寄せれば、深刻な事態に陥る懸念は強い。
株式市場は経済のV字回復を織り込み、企業の業績の先行きを吟味せず、株価が上がっている。過剰流動性によるものだろうが、パンデミックの危機回避にどれだけの時間が必要で、政府・中銀のリソースがどれだけ持つのか。中長期的な見通しを立てるには、最低1年はかかる。
経済的なマイナスの塊がゴロンと横たわった感じで、世界中のビジネスがエネルギーを吸い取られていく。そんな時代が何年も続く恐れはある。
その間、グローバル経済のダメージを修復するのは政治の仕事だ。米国を除き、自国第一主義だけでは立ち行かない。世界の国々が、相互性をルール化し、国際関係を再構築すべきだ。しかし、どの国に政治的なリソースがあって、リーダーシップが存在するのかが見えない。
米中対立、不確実性増す
中国の歴史を振り返ると、人民の暴動と疫病によって、王朝が倒れるということが繰り返されている。香港の暴動と新型コロナウイルスという典型的な政情不安の要素が昨年から今年にかけて立て続けに起こり、習近平政権は相当神経質になっているはずだ。
中国は新興国への進出を既成事実化し、イタリアなどの先進国にまで食い込もうとしている。こうした中で、習近平氏の日本訪問はいつ、どのような形で行われるのか。中国が描く新たな対世界戦略が、新型コロナウイルスのパンデミックでどのように変化するのかを見極めなければならない。
これに対し、多くの感染者と死者を出した米国が、このまま幕引きするとは考えにくい。米中の対立が先鋭化し、国際関係の不確実性が増すのは避けられない。米大統領選と、パンデミックの第2波が重なる秋から冬にかけて、米中関係は大きな山場を迎えるだろう。
政治主導、最大の試練
各国政府が国民の生命を守る競争を世界中の人々が見物している。感染者の数、死者の数、PCR検査の数、政府に対する国民の評価など多くの尺度があり、どのように点数をつければいいのかはわからない。しかし、今後、様々な評価が起こり、政治体制を優劣する議論が横行するだろう。
こうした中で、次なる危機に備えて、日本政府のパフォーマンスを民間で調査研究してはどうか。日本が感染症対策として持っているリソースやノウハウ、特徴などを調査した結果について意見交換ができれば、国際的な信頼感を醸成するのに役立つはずだ。
日本は政治主導による意思決定という体制が始まって以来、最大の危機を迎えている。これまで「政治主導」を掲げれば、誰も文句が言えない雰囲気だったが、今回は、政策の中身が試されている。
例えば、専門家会議と政権との間合いがどのように作られ、それは適切だったのか。知的リソースを活用して効果的な政策を打ち出し、政治も成長するのが理想的な姿だ。しかし、今回は、政府の都合で専門家を丸め込むようなことはなかったのか。知の活用や組織の関係づくりを考えるのも政治主導のテーマだ。
日本型モデルの是非
日本の政策決定プロセスを見ると、通常時と非常時の切り替えが法体系においてもはっきりしない。憲法問題に言及する必要はないかもしれないが、国民にも、リーダー自身にも切り替えの感覚が見られない。
それが端的に表れたのが、日本型モデルとも言われた「自粛」の要請だ。自粛モデルは、その法的、倫理的に合理性があるのか、また、責任の所在はどこにあるのかについて整理すべきである。
「自粛」の要請に従わない人がSNSで叩かれる。「自粛」「指示」、従わなければ「店名公表」と、自粛の政策にも奥行きがあって、次々とカードが出てくる。しかし、結局、誰が、何に対して責任を負うのか不透明だ。
自粛しない人から罰金を取るなら、政府が責任を持つことになる。法律で禁止し、政府が補償でサポートしてくれた方がいいという国民の声もある。政治への不信感に輪をかけているのが、PCR検査の数が少ないことで、政策の根拠や国民に対する説得性を低下させている。
安倍首相の口からは「目詰まり」という言葉が飛び出したが、その原因は、アナログ政府なのか、縦割り行政の弊害なのか。パンデミックが一段落したら、日本型モデルの是非について、政治が答えを出すべきだ。「司令塔」不在の政治主導には限界があり、システムの総点検が必要になる。
*2020年5月11日取材。所属・役職は取材当時。