論争「生産性白書」:【語る】柳川 範之 東京大学大学院教授
柳川範之・東京大学大学院教授は、生産性新聞のインタビューに応じ、日本生産性本部が初めて発刊した生産性白書について、「生産性の大事なポイントは人であり、人がより充実した形で働くことができる組織の重要性を改めて強調している」と評価した。さらに、そのうえで、人の能力を高め、新しい時代に応じた能力を身に付けるための人材投資が重要になるとの考えを示した。
生産性向上には人材投資がカギ より充実して働ける組織に
さらに、生産性を向上させるために、今後、大事になってくるのは人材投資であるとの考えを示し、生産性白書が第2部第2章で「人材投資と生産性」を取り上げていることを評価した。「それぞれの人の能力を高めていくことや、新しい時代に合った能力を身に付けてもらうことが、より充実した働き方につながり、結果的に生産性が上がる」と述べた。
学び直しの機会としては、会社内でのオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)だけでなく、別の産業分野の知識やノウハウを学ぶための会社外でのOJTの機会も有効になる。働く場での個別性の強い学びの場のほかにも、学んだこと、体験したことを整理し、抽象化する座学的な勉強が有効な局面もあるという。
柳川氏は「社外でのOJTの体験については、兼業や副業をどこまで認めるかということと課題が共通している。他の分野のスキルを身に付けたい場合、兼業・副業として体験してみることが現実的な方法として考えられ、一定のルールの下で、兼業・副業を認めていくことによって、社員のトータルなスキルアップにつながっていく」と話す。
これまでは、従業員のキャリアを会社側がプランニングし、OJTなどを通じ学ぶ機会を提供してきた。しかし今後は、現在や将来の社会のニーズや変化に対応し、社内外での学ぶ機会や職業訓練のプログラムを自分で選び、キャリア開発の目標と計画を描き、学び続ける「キャリア自律」の考え方が、働く側にも求められるという。
一方、生産性白書が第2部第6章で論じている「生産性測定の課題」についても評価し、現状では、目に見えて測定しやすい金銭的な指標にウエートがかかっているが、これからは、どうやって非財務的な価値を評価するかが重要になると指摘した。
柳川氏は「企業にとって、お金がどれだけ儲かったかということも大事だが、従業員一人ひとりが、満足に働くことができているか、また、顧客が企業の商品やサービスにどれだけ満足しているかなどの心的な満足度を数値化し、生産性向上に結び付けていくかが問われている」と述べた。
(以下インタビュー詳細)
オンライン、普及が生むインパクト 今こそ発想の転換が必要だ
生産性の肝は「人」である。人がより充実した形で働くことで、生産性を高めていくことが可能になるからだ。そういう意味では社会として、さまざまな学びの場や機会を提供することが大切になるし、企業にとっては人材育成投資への経営陣の姿勢が極めて重要だ。
新型コロナウイルスの感染拡大の結果、世界中の大学でオンライン講義が急速に広まった。多くの人の関心は、感染拡大防止の観点からみて、対面講義とオンライン講義のバランスをどのようにとればよいのかという点に集中しているが、オンライン講義の普及がもたらしたインパクトは、実はもっと大きい。
オンライン講義はキャンパスの物理的な制約を取り払い、学びたい人を何万人でも受け入れることができる。キャパシティに合わせて入学者を選ぶ入学試験の意味が薄らぐ。より本質的な意味で、大学教育のあり方そのものを大きく変える可能性がある。
限られた時間のなかで、特定の問題を解かせる入学試験が、人の能力を適切にセレクションできるとは限らない。できることなら、入学を希望する人たちみんなにオンライン授業を受けてもらい、そのうえで試験を実施し、優秀な成果を収めた人たちを選ぶ方が良い。
その人たちにリアルにキャンパスに集まってもらってスモールディスカッションに参加してもらう方が、大学の授業が充実するし、入試の弊害をなくすことも期待できる。
現状では、東京大学に入学するために、ものすごいエネルギーを注がなくてはならない。入学するのは大変な割に卒業するのは容易であり、本来の大学教育のあり方としては決して良いことではない。
入試を突破するためには、お金がかかるのが現実だ。地方に住み、所得が高くない家に生まれると、そのお金をひねり出すことは容易ではない。経済格差が学習機会の格差へとつながってしまいかねない。入試廃止には抵抗も予想されるが、例えば、オンライン履修コースを設け、それを拡充するやり方が大学教育を変える突破口になりうる。
オンライン授業を社会人にも開放することで、社会人の学び直しや企業の人材育成、リカレント教育にも大きなインパクトがある。必ずしも卒業にこだわらず、ある科目の単位を履修したことでスキルの獲得を証明する形にすれば、大学や大学院のオンライン教育を活用する動きは広まる。
かつては、個人が学び、能力やスキルを身に付けるのは、社会人になる前に済ませて、社会人になった後は、働きながらのオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)による能力開発に頼ってきた。
今でもOJTは大事だが、社会に出てからも学び直す必要性が高まっており、そういう機会を得やすい社会にすることが、企業の生産性の向上や、新しい時代に対応した人材育成のためには極めて重要になっている。
学び直しによって、会社に入ってからもスキルアップを図り、新しいスキルを身に付けることができる。不幸にして失業してしまったり、就職ができなかったりした場合に、再就職に必要な職業訓練や能力開発にも生かすことができる。そうした機会は今も提供されているが、限られたものになっており、もう少し広げていくという面では、大学のオンラインコースなどは有効だ。
そもそも、高校を卒業した人が学ぶ場所と、社会人を経験した人が学び直す場所が分かれている必要はない。むしろ、私は、学生たちにとっても、社会人を経験した人と一緒に学ぶことが、教育効果としてより高くなると思っている。同世代の学生ばかりが学ぶよりも、社会経験を積んだ人の情報や知識に触れるほうが、新たな発想やアイデアが生まれやすくなるからだ。
トップが危機感や未来を語れ
教育改革や労働関係の法制度改革に比べると、企業の組織改革や組織変革は、目的が共通しているのでハードルが低い。簡単なことではないだろうが、もっとスピード感を持って取り組まなければならない。
コロナ禍をきっかけにした社会や企業組織のデジタル化は、今まで以上に急速なスピードで進みつつあり、働きやすく、生産性が上がりやすいように組織を変えていくことは待ったなしの課題だ。
経営トップがメッセージを伝え、そのメッセージが納得感をもってもらえるかどうかが社内の改革を左右する。オンラインが増えれば増えるほど、若い世代には背中で語るだけでは伝わらない。デジタル化が進展する社会の中では「現状維持はあり得ない」という危機感と、変革した後の未来像を時には従業員たちの感情に訴えて語る必要がある。
生産性の向上は単にコスト削減ではなくて、イノベーションを起こし、収益性を高めていくことが求められている。人材への能力開発投資のほかにも、従業員がオープンネットワークを築きやすい環境を整えていくことが重要だ。
イノベーションを起こすためには、新しい情報や知識が入ってくる必要があり、社外とのネットワークを持ち、いつもと違う人たちとコミュニケーションを取ることが大事になる。新しいアイデアや発想はいつも顔を合わせている人たちと議論を重ねても、なかなか浮かばないものだ。
オープン環境に工夫の余地
日本の会社は伝統的に、チームのコミュニケーションを密にして、作り込み、生産性を高めてきた。決められた路線をより精密に、コストを安くするためには効果的だった。例えるなら、クラシックのオーケストラだ。演奏する曲が決まっている中で、正確に音を合わせるために、ひたすら同じチームで練習を繰り返すやり方だ。
今求められているイノベーションは、決められた音を出すのではなく、新しい曲や新しいジャンルの音楽を作る取り組みが必要になる。クラシックの同じメンバーだけでなく、ロックやジャズのアーティストも招き、セッションを行う必要がある。今はこうしたオープンイノベーションを行う必要があり、その方が、伸び代があり、結果的に生産性が高くなるという状況だ。
企業にとっては、オープンイノベーションを可能にする環境づくりが大事だが、現状では、経営者たちは、企業を超えたメンバー間でのコミュニケーションを円滑に取らせるための環境整備に関しては、やや工夫の余地があると思っている。
また、共創や協業、合弁などの場でも、自社が損をしたくないという意識が強い。違う会社のメンバーが集まっても、守りの意識が強すぎて、壁ができてしまい、結果的に良いコミュニケーションやアイデアの交換ができなくなりがちだ。
コミュニケーションを密にできる工夫としては、人が同じ組織の中にずっと居続けることを強調し過ぎず、「兼業や副業につながる」「転職する可能性が高まる」といったことにも寛容になった方が、結果的に社内にいる人材の能力アップや、イノベーションを生み出すことにつながる。
経営者目線ではこうした取り組みは難しいことは理解できるが、今こそ、発想の転換が必要だ。日本では目に見えない内と外の壁が大きすぎることがイノベーションの創出を阻んでいる面は否めない。
*2021年3月4日取材。所属・役職は取材当時。