論争「生産性白書」:【語る】中尾 武彦 みずほリサーチ&テクノロジーズ理事長

財務官やアジア開発銀行(ADB)総裁などを歴任したみずほリサーチ&テクノロジーズの中尾武彦理事長が生産性新聞のインタビューに応じ、生産性向上を図るためには企業の推進力や稼ぐ力を伸ばす経営への転換が重要になるとの考えを示した。また、政府はイノベーションを生む土壌を育むため、大学院などの高等教育や研究機関への投資を積極的に進め、社会実装を見据えた産学連携を活性化すべきと提言した。

企業は推進力と稼ぐ力を伸ばせ 政府は産学R&Dへの集中投資を

中尾武彦 みずほリサーチ&テクノロジーズ理事長
中尾理事長は「日本がかつての英国のように経済的な低迷が続き、若年層に夢を与えることができないことから、生産性の上昇が議論されるようになっている」と述べ、戦後復興以来の生産性運動の盛り上がりに期待感を表明した。

ただ、国際的に比較すると日本の生産性が低いとの議論については「OECDの発表する労働生産性は、購買力平価ベースのGDPを単純に就業者数で割ったものであり、労働者の働きが悪いということを意味しない。過小評価されている可能性のある円の購買力や人口オーナス(全人口に占める生産年齢人口の比率の低下)の影響も大きい」とし、過度な悲観論を戒めた。

さらに、日本のサービス分野の生産性が低いとの指摘に対しては「日本のサービスのクオリティは非常に高く、海外からも評価されているが、マネタイズができていないか、価格が低すぎる。提供するサービスの品質に見合う形でもうけることを考える必要がある」と稼ぐ力の強化が鍵になるとの見方を示した。

その上で、鉄道を中心に郊外住宅地、観光施設、デパートなどを一体的に進めるビジネスモデルを生み出した小林一三らを例に挙げ、「日本には時代の節目でアイデアあふれる起業家が登場しており、イノベーション力がないとは思わない」と述べ、海外に展開できるような独創的なサービスやビジネスモデルへの期待を表した。

日本が国際競争力の低迷に歯止めをかけ、再び攻勢に出るには、『学問のすゝめ』を記した福沢諭吉が唱えた「人民の独立の気力」が必要になると強調。「企業が本当に社会的使命を果たそうとするなら、これまでの延長線ではなく、市場のニーズに目を向けて力強く前に進まなければならない。説明責任、コンプライアンス重視だけではだめだろう」と企業に対して推進力を求めた。

政府の役割としては、研究、技術開発分野への集中的な投資などの支援を進めるべきとの考えを表明。戦後の米国が大学院を活性化し、産業との結びつきを強化することで新産業を生んだ経緯を振り返り、「日本の大学院もさまざまな分野で、社会実装を見据えた産学連携を進めつつあり、成果に結びつけることが必要だ」とした。

富裕層の存在感が大きい米国では寄付文化が発達し、高等教育の運営費や奨学金の財源を提供しているが、所得格差が比較的小さい現在の日本では、国が大きな役割を果たすしかないという。

中尾理事長は「明治初期の日本政府もお金がなかったが、集中的に投資して大学を作った。今の政府も財政は厳しいが、社会保障を少し効率化してでも、将来の世代のための投資を実行しなくてはならない」と述べた。


(以下インタビュー詳細)

時代を突き抜ける人材が欲しい 諭吉が追い求めた「独立の気力」

質の高いモノを大量に生産できる能力が物を言った時代、日本企業には競争力があり、生産性も高かった。しかし、現在の日本経済はGDPが拡大せず、企業の生産性が上がりにくくなっている。その背景には、今までの成功モデルの延長線上から抜け切れていないことがある。

今は市場が求めているものが変化しており、性能を高めるだけではなく、顧客本位の戦略でニーズを探らないと売れない。サプライサイドの発想から抜け切れていないために失敗しているケースも多い。また、大企業病によって環境変化に柔軟に対応できなくなりつつあり、変化を起こせるような人材を活用できずにいる。

経営者は「コンプライアンスやアカウンタビリティを果たしていればそれでいい」という「事なかれ主義」になってはいないか。「これで行くぞ」と決めて果敢に突き進むエネルギーを持っていない企業に、国際競争は勝ち抜けない。日本はもともと同調圧力が強い社会と言われるが、そこで「世間」ばかり気にしていては発展はない。米国企業には、ガバナンスの一方で「えぐさ」や利益への執着もある。

阪急電鉄の創業者である小林一三は、駅のデパートや宝塚歌劇など海外にも手本がないような私鉄のビジネスモデルを生み出した。極めてイノベーティブな起業家だった。他にもかつての日本には、二輪車や自動車、電機、エレクトロニクスなどさまざまな分野で熱意と創意にあふれた起業家たちがいた。

米国のGAFAが強いのは、超過利潤が大きく、もうけたお金をさまざまな分野にリスクを取って投資できるからだ。いわば好循環になっている。これに対し日本では、企業や個人、社会全体がリスクを取れなくなり、活力が下がり、生産性が低迷している。

明治の近代化、西洋化が始まったころに、福沢諭吉は『学問のすゝめ』を出版し、多くの日本人を鼓舞した。もし福沢が近代化を果たした今の日本を見たら、感心することも多いだろうが、その一方で残念に思うこともたくさんありそうだ。

まず、最近の日本経済の低迷に結び付けて「人民の独立の気力」が弱まっていると嘆くのではないだろうか。西洋の文明は政府ではなく、人民から起こった。日本の文明を進めるのは「私立の人民」であると言い切った福沢の言葉は、明治の人々の心に強く響き、国民性にも影響を与えていったのだと思う。

日本には十分に経済的な価値や成果につなげることができていない成長の種もまだ多く眠っている。規制緩和や研究開発の支援など国がやるべきことはいろいろあるが、まずは国民が今一度現実を直視し、「人民の独立の気力」を高め、必要な学問をし、創意工夫し、活動を盛んにすることが必要ではないか。そういう意味では、今の日本に、新しいビジネスに挑戦しようという若い起業家がさまざまな分野に出てきていることは明るい兆しだ。

労働者は悪くない


ところで、日本の生産性が他の先進国に比べて低いという指摘には誤解もある。日本生産性本部が発表している労働生産性の国際比較は、OECD統計に基づくデータだ。日本は1990年代以降、いくつかの指標で見て、常に米国の1人当たりの生産性の6割から8割で推移しており、日本人が自国の労働生産性をネガティブに考える理由になっている。

しかしそのデータを詳しく見ると、日本の生産性が米国より低くなるのはOECDの用いている購買力平価の為替レートにも原因がある。外国生活や海外出張の実感から受ける印象では、たとえば日本の宿泊費や外食費、教育費、理容や娯楽などは、他国に比べ品質が高い割に価格が安い。これは、消費者からすると素晴らしいことだ。しかし、OECDの購買力平価のドル換算レートではそのような円の実力が十分評価されておらず、ドル建てのGDPは小さくなり、日本の生産性の低い評価につながっている。

また労働生産性は、GDPを労働者の数もしくは投入労働時間で単純に割った数字だ。日本の場合、GDPの金額が低いのは、生産量が少ないというよりは生産したモノの価格、特にそのドル建て換算の価格が上がっていないことが大きな要因だ。より高い価格が付くような財やサービスを生み出す必要がある。

「労働生産性を高めるために、労働者はもっと効率よく一生懸命働かなければならない」ということではない。それよりも、どうすれば高く売れるモノを作ることができるのか、また同じモノでもどうすれば高く売ることができるのかを考えることが大事だ。

「良いモノを安く売る」ことは、ある時期のビジネスモデルとしては良かったが、今の国際競争の中では通用しない。GDPを基に金額で考えている生産性を高めるには「良いモノを高く売る」ことが大事だ。もうけを出すことで、さらに投資や賃金引き上げにつなげることができる。

ところで、生産性を上げるためには資本(機械、設備など)への投資をもっと増やすべきなのか。労働者1人当たりの資本の装備率が高まれば、労働生産性は高くなる。ただし、資本投入が大きければ、資本コスト、すなわち付加価値のうち、利潤や利子への配分が大きくなる。賃金が労働生産性と同じだけ上がるということではない。日本のGDPに占める投資の比率は高く、資本不足が問題ではない。中小企業、なかでもサービス業は資本装備率が低く、その分労働生産性は小さく見えるが、優れた企業も多い。

日本の生産性が一概に低いと過度に悲観する必要はないが、だからといって企業や労働者が生産性向上の努力をしなくていいというわけではない。人口減少、高齢化社会の進展の中で、日本経済の活力を維持し、存在感を示すには、生産性向上が鍵であり、官民の広範な取り組みが必要だ。

今回のパンデミックでクローズアップされたデジタルトランスフォーメーション(DX)は、それ自体がどの程度生産性を上昇させるかは明らかではないという議論もあるが、少なくとも企業や個人が生産性上昇につながるビジネスや働き方を追求するための手段、必要条件になるだろう。

中国では1978年に改革開放路線に舵を切り、市場経済志向の政策がとられた。その中で鄧小平は「先富論」を唱え、先に豊かになる者を富ませて全体の水準を上げることを目指した。日本でも「先デジタル論」のような考え方が今まさに必要ではないか。横並びではなく、デジタル化できる個人、企業、学校、自治体から始めるということだ。

生産性向上についても同様に、できるところから先に進める。言い換えれば、もうけられる企業が先に行くということが必要だ。競争の結果としての弱者を救うことは大事だ。しかし競争するときは、突き抜ける人には突き抜けていってもらうことを許容すべきだ。今や国民の側も、若い世代を含め、そうしたアプローチを求めているのではないか。



*2021年6月14日取材。所属・役職は取材当時。

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