コロナ危機に克つ:日立造船 本業からの撤退に学んだこと

新型コロナウイルスの感染拡大は、第5波が収束へと向かったものの、日本経済に残した傷跡は癒えない。産業界はこの危機をどのように捉え、再起を図るべきか。1985年のプラザ合意以降の円高ドル安に伴う産業構造の変化を経験し、121年続いた造船事業の撤退に踏み切った日立造船元会長・社長で現顧問の古川実氏(関西生産性本部評議員会議長)に聞いた。

ピンチではなくチャンス 貫いた従業員第一主義
日立造船 古川実顧問に聞く

古川実 日立造船顧問
――コロナ危機のインパクトをどう見ているのか

「新型コロナの感染拡大は誰もが予想しなかった大変な危機だ。日本国内のみならず世界経済を大きく変動させた。このようなことを申し上げると大変不遜に聞こえてしまうかもしれないが、コロナ危機をピンチと捉えるのではなく、チャンスと捉えるべきだと思っている。ここで打ちひしがれてしまえば、全てが終わってしまう。ダーウィンの進化論は、強者が生き残るのではなく、環境変化に適応した者が生き残ることができると説いている。日立造船も時代の変化を捉え、もっと早く造船事業からの撤退をしておけば、傷が浅く済んだのかもしれないが、当時としてはギリギリの決断だった」

――造船業界にとっての環境変化とは

「戦後、日本の造船業界は世界に冠たる地位を築いたが、1973年に韓国の現代グループが造船事業に進出し、2000年に入ると、中国勢が大きく進出してきた。今や造船業界は中韓勢に席巻され、日本は後退を余儀なくされた。1985年のプラザ合意以降、円高ドル安へと大きく転換し、日立造船はその年に造船事業を中心に大きな赤字を出した。2002年10月に造船事業を分離したが、それまでの十数年間で1,400億円近い損失を計上した。『これ以上、赤字を続けたら、日立造船は潰れる』というところでの造船事業の分離の決断だった。さらに、これで出血が止まったわけではなく、調べていくと、さまざまな赤字が出てきた。社長に就任した初年度に300億円の赤字を出し、ようやく打ち止めができて、この時点から環境事業中心の企業へと転換した。今なら、『この事業環境で中韓と戦えるのか』という見極めをもっと早くすべきだったと言えるが、当時は『何とかなるのではないか』との思いが判断を遅らせてきた。今回のコロナ危機でも、世の中がどう変わっていくのかを現時点で見極めるのは非常に難しいが、それができた人たちが、生き残り、勝ち残っていけると思う」


――121年続いた本業を撤退する決断の重みは

「この決断ができたのは、社長一人の力ではない。先人たちが積み上げてきたものがあってこその経営判断だった。当社の中興の祖と言われた松原與三松氏は、景気変動に左右される造船事業とバランスさせるために、陸上機械事業に力を入れ始め、その後の経営者もその方針を引き継いだ。また、高度成長期に公害問題がクローズアップされ、ゴミの不法投棄や伝染病のまん延の恐れに悩む大阪市からの依頼を受けて、スイスのフォンロール社(現Hitachi Zosen Inova AG(以下、イノバ社))から技術供与を受け、1965年に旧大阪市西淀工場向けに我が国初の発電設備付きのゴミ焼却施設を建設した。その40年後に造船事業を分離するときには、ゴミ焼却炉の事業は環境事業として、当社の中核的な事業へと成長していた。先人たちが準備してくれたところに、私たちがうまく事業転換が図れたわけで、企業は一日にして成るものではない。企業の寿命は30年と言われるが、成長段階に入るまで20年から30年はかかるものだ。当社の企業理念は『私達は、技術と誠意で社会に役立つ価値を創造し、豊かな未来に貢献します』であり、当社が社会的使命として貢献できる最大の事業が、ゴミ焼却炉ビジネスだと思っている。当社の歴史を創業時にまで遡ると、北アイルランド出身のE.H.ハンター氏が大阪鉄工所を安治川岸に創立したのが始まりだ。外国人が日本に造船所を開くのはチャレンジ精神がなければできない。イングランドではない北アイルランド出身者であるハンター氏は反骨精神も強かったのだろう。『来日し、どんなことがあっても一旗あげる』という挑戦心の塊であり、それは今の日立造船のDNAとして引き継がれている」


――赤字が続いた時代、従業員のチャレンジ精神をどうやって維持させたのか

「ボーナスカット、給与カット含め、厳しいリストラが続いた時期もあった。当時は従業員とできるだけ対話して、『今は苦しいけれども、会社は良くなってくる。良くなってきたら必ず従業員に報いる』と訴えてきた。株主第一主義の企業も多いが、エンプロイーファースト(従業員第一主義)を貫き、協力を呼び掛けてきた。退職した人たちの中にも、日立造船は好きだが、生活が苦しく、やむを得ずに辞めていった人たちも少なくない。日立造船に対する愛社精神のある人たちに、『従業員第一』の言葉に共鳴してもらえたと感謝している。熱意が通じたのは、現場に顔を出し、face to faceのコミュニケーションを積極的に取ってきたからだと思っている。当時は、お金を出すこともできないし、自分の人生観を問いかけるというか、自分の生の考えをぶつけていくしかなかった。そうすると、現場も生で体当たりしてきてくれる。そこに良い意味の火花が散って『やってやろう』となったのだと思っている。日立造船の組合は協力的であり、組合員を説得してくれた。その結果、『なんとしても日立造船を残す。大阪の名門企業をここで潰すわけにいかないのだ』という一点に再生への力を集約することができた」


――ポスト・コロナの企業経営では何が重要になるか

「始めてからすぐに収益が出る事業はない。その時に大事なことは、赤字を赤字として捉えるのか、先行投資として捉えるのかの見極めだ。その経営判断は早すぎても遅すぎてもだめだ。イノバ社からライセンス供与を受け、ゴミ焼却発電プラントを営業していたので、当時の市場は、日本と韓国、台湾、中国などに限られていた。2010年12月にイノバ社の買収を決めて、完全子会社にしたことで、東南アジアをはじめマーケットは全世界に拡大した。また中国企業へのライセンス供与も行っている。現在は、ゴミ焼却発電プラントに関しては、世界ナンバーワン企業になることができた。買収してから一時期イノバ社は赤字を出したが、この赤字は投資であると確信していた。今年5月には、ドバイで一日5,000トンの焼却能力を持ち、35年間の運営事業との合計で総額1,000億円を超える当社グループ最大のゴミ焼却発電プラントを受注できた。これは日立造船とイノバ社が協力して、国際協力銀行のファイナンスを得て、受注にこぎつけることができたからだ。10年経って、ようやく回収期に入ることができた。エンジニアリング会社やメーカーにとって、開発費を削ることは命取りだ。従業員の給与をカットしたことはあるが、『社長は何年かすれば辞めていくが、あなた方はまだ若いのだから、給与カットは日立造船への投資だと思ってくれ。必ず昇給となって返ってくるから』と説得した。開発費を削減すると絶対に企業は成長しない。10年先、20年先を見据えた技術開発をあきらめてはならない。長い歴史を持つ企業には、創業者の精神がある。苦境に陥った時、創業の精神を思い出し、原点回帰して、何が大事なのかを考えるべきだ。日立造船にとっては、創業者のハンター氏が苦労して異国の地で会社を立ち上げたチャレンジ精神がバックボーンであることは言うまでもない」



*2021年10月29日取材。所属・役職は取材当時。

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