第4回 安い日本の終焉、物価高定着 東京大学名誉教授 渡辺努氏
連載「経済の転換点を読み解く」④ 安い日本の終焉、物価高定着
物価上昇が続く中で、日本の消費と企業行動はどのように変わりつつあるのか。東京大学名誉教授の渡辺努氏は生産性新聞のインタビューに応じ、「企業の価格決定力が復活し、インフレは一過性ではなく、持続性を持った」との認識を示し、「安い日本が終わった」と述べた。
インフレは2つの波を経て新局面へ
渡辺氏は足元の物価上昇について、「2つの波があった」と説明する。第1波はロシアのウクライナ侵攻後の2022年春から23年夏にかけてで、「エネルギーや穀物など輸入価格の上昇によるコストプッシュが主因だった」と語った。
第2波は昨年夏にピークを迎えた。「賃上げや物流費、米価など国内要因が主導する局面に変わった」とみる。このころから企業がコスト上昇分を価格に転嫁しやすくなったという。
こうした動きについて渡辺氏は、「日本経済が世界水準へ収れんする過程ともいえる。これまで相対的に低かった物価が欧米水準に近づきつつある」と述べた。「安い日本」の是正が始まったとの認識を示した。さらに、中東情勢など地政学リスクの高まりや為替動向次第では、物価高が加速する可能性もあるとみる。
物価高前提に選別消費に
消費行動の変化はより多面的に進む。渡辺氏は「単なる節約志向ではなく、物価高を前提にした選別消費へ移っている」と話す。
昨年夏からのコメ価格の高止まりでは、「銘柄米の値下がりは限定的で、消費者はブレンド米や内容量変更などで調整する」と分析する。「価格上昇を受け入れつつ、買う中身を変える動きが広がっている」という。
値上げが続くなかで、消費者が納得感を重視する傾向も強まる。品質や利便性が伴えば価格上昇を受け入れる一方、そうでなければ離れる。
支出構造にも変化が及ぶ。「日常必需品は価格上昇を受け入れる一方、耐久財や裁量的支出は先送りされやすい」とし、「消費総額は底堅くても、中身は大きく入れ替わっている」とみる。外食やサービスでは、「利用頻度を減らす一方、単価の高い利用を選ぶなど、量から質へのシフトもみられる」と語った。
人口減少が物価押し上げ要因に
サービス分野では構造変化も進む。「人手不足を背景にスーパーなどでセルフレジが広がっている。これは一時的ではなく、持続的なコスト構造の変化だ」と指摘した。人口減少や人手不足については、「需要だけでなく供給力そのものが縮小している」と説明。今後も地政学リスクに加え、国内要因によるインフレ圧力が強まるとみる。建設分野では労務費や資材価格の上昇を背景に住宅価格の上昇も続く。広範なコスト高の表れだという。
一方、賃金については「名目賃金は上がっているが、物価高に追いつかず実質賃金はなお弱い」と話す。「持続的な消費拡大には6%程度の賃上げを社会全体に広げる必要がある」と訴えた。格差拡大にも言及した。賃上げは進むものの、大企業と中小企業、世代間で伸びに差が出ているとし、「平均は上がっても、分布のばらつきは広がる」と指摘した。
そのうえで、「インフレはもはや一過性ではない。企業、家計、政策のすべてがインフレを前提に行動を組み直す必要がある」と述べた。
値上げ容認、消費の転機に 東京大学名誉教授 渡辺努氏インタビュー
物価は上がり続けるのか。長くデフレに覆われた日本経済は、いま構造転換の局面にある。東京大学名誉教授の渡辺努氏は、背景にあるのは企業行動の変化だけでなく、消費者心理の変容だと指摘する。インタビュー詳報は次の通り。
渡辺努 東京大学名誉教授
渡辺 努(わたなべ・つとむ) 経済学者。専門はマクロ経済学、物価・金融政策。東京大学経済学部経済学科卒業。ハーバード大学Ph.D(経済学専攻)。日本銀行金融研究所研究員などを経て東京大学大学院経済学研究科教授。現在、東京大学名誉教授、ナウキャスト創業者・取締役、キヤノングローバル戦略研究所主幹研究員。
日本のデフレや近年のインフレ動向、価格データを用いた物価研究で知られる。著書に「物価とは何か」「慢性デフレ 真因の解明」「世界インフレの謎」など。近著「インフレの時代」(中公新書)では、インフレは日本経済をどう変えるかについて解説している。
値上げを受容、デフレ均衡崩す
日本では長年、賃金も価格も上がらない状況が続いた。企業は値上げを避け、消費者もそれを当然と受け止めてきた。だが、この均衡は崩れた。以降、日本経済はインフレ基調に入り、元の状態へ戻るのは容易ではない。
転機となったのは生活者の意識変化だ。かつては値上げへの拒否感が強かったが、近年は「多少の値上げはやむを得ない」との受け止めが広がった。企業は価格転嫁に踏み切りやすくなり、物価上昇が定着した。出発点は供給側ではなく、需要側の認識変化にあったとの見方もできる。
ロシアによるウクライナ侵略などによるエネルギー価格や小麦価格の高騰も影響した。世界的な供給不安が家計を直撃し、「世界は変わった」との実感を広げた。外部ショックが心理的転換点となり、値上げ受容を後押しした。
価格メカニズム復活
2023年以降の賃上げも重要な要素だ。春闘を通じ賃金上昇が進み、多くの人が「収入も増える」と感じ始めた。価格上昇への耐性が一定程度生まれ、企業はその余地を見て値上げを進めた。価格メカニズムが復活しつつある。加えて、人手不足に伴う賃上げ圧力、物流費の上昇、コメ価格の高騰など、国内要因も物価を押し上げる。人口減少は需要だけでなく供給も縮小させるため、結果としてインフレ圧力になり得る。
POSデータが示す「高原状態」
物価動向を見極めるうえでは、統計の見方も問われる。政府公表の消費者物価指数(CPI)は代表的な指標だが、集計や公表までに時間差がある。これに対し、スーパーのレジを通過する際の購買情報であるPOSデータは、日々の価格変動をほぼリアルタイムで映す。「現場の物価」を示す補完指標として注目される。足元のインフレ率は高水準で横ばいの「高原状態」にある可能性が高い。国際情勢や円相場次第では、再加速の余地もある。
象徴的なのがコメ市場だ。高値でも需要が維持されており、「高くても売れる市場」が形成されつつある。コンビニエンスストアや外食でも、一度上がった価格は下がりにくい構造が強まっている。
ベースアップ率の値は2013年度までは賃金事情等総合調査、2014年度以降は春季生活闘争回答集計結果による。2025年の消費者物価上昇率は暦年値。
出所:内閣府月例経済報告
所得格差、生活格差に直結
懸念は実質賃金の動向だ。賃上げが進んでも物価上昇に追いつかず、家計負担は重い。
インフレ局面では、過去に物価上昇へ追いつけなかった賃金をどう補うかも課題となる。注目されるのが「キャッチアップ賃上げ」の考え方だ。実質賃金の目減り分を後から補填し、購買力を回復させる発想である。値上がりしても購入できる層がいる一方、生活必需品の上昇に苦しむ層も多い。購買力の分断が進めば、消費の二極化が進みかねない。
大企業は人材確保のため賃金を引き上げやすい一方、中小企業は価格転嫁が難しく、賃上げ余力に乏しい。結果として、人材は高賃金企業へ流れ、人手不足が中小企業や地方で深刻化する。地域経済や産業構造への影響も小さくない。持続的な消費拡大には、6%程度の賃上げを社会全体へ波及させる必要がある。
物価抑制より賃金底上げを
求められるのは、物価を無理に抑え込むことではない。賃金上昇をより広く、持続的なものにし、家計がインフレ負担に耐えられる社会を築くことだ。
大企業中心の賃上げを中小企業や地方へどう波及させるか。生産性向上や付加価値創出によって、賃上げ余力をどう高めるか。インフレ時代の日本経済に問われるのは、その実行力である。
◇ 本連載では、専門家へのインタビューを通じ、経済の「現在地」と今後の展望を多角的に検証し、次の成長戦略を探る。
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