第8回 日本経済、付加価値型へ移行を 三菱総合研究所常務研究理事 武田洋子氏
連載「経済の転換点を読み解く」⑧ 日本経済、付加価値型へ移行を
日本経済はデフレ的な構造から、新たな局面へ移り始めている。三菱総合研究所常務研究理事の武田洋子氏は生産性新聞のインタビューで「企業収益を成長投資に向けることが次の課題」と述べた。
デフレから高付加価値へ 日本経済の構造変化
武田氏は、デフレ期には人件費を含む費用を削減して利益を確保する経営に傾いていたと指摘。特に中小企業では、原材料価格が上昇しても販売価格に十分転嫁できず、非正規雇用を増やすなどして総費用を抑える動きが広がったと説明した。「賃金が上がらなければ家計は将来の所得増を期待できず、消費も伸びない。企業も価格を引き上げられないため名目収益の拡大を見込みにくく、研究開発投資や人的投資、設備投資などの成長投資を控える悪循環が続いた」と述べた。その結果、価格競争が激化して国内市場が疲弊し、日本企業は海外企業との競争でも後れを取ったとの見方を示した。
また、デフレの影響は物価の停滞だけではなく、日本経済全体の構造問題だったと強調。「非正規雇用の拡大は未婚率の上昇とも重なって少子化を加速させ、国内市場の縮小が見込まれた。企業は成長機会を海外に求め、投資も国外へ向かうようになった」と説明した。
その上で、国内は現在、人手不足によって労働力の希少性が高まり、賃金上昇を前提に生産性を高めなければ経営が成り立たなくなり、またマクロで見ても供給制約が成長の制約となる経済へ変化していると指摘した。価格転嫁も以前より進み、サプライチェーン全体で適正な価格形成を目指す意識が広がっているという。「まだ十分ではないが、企業が価値に見合う価格を付けられる環境になりつつある」(=グラフ参照)と述べた。
経営者の発想も、どのように費用を削るかではなく、どう付加価値を高め、その価値に見合う価格を実現するかに変わり始めているとし、「低価格で市場シェアを確保する商品・サービスと、高付加価値商品で利益を確保する商品・サービスを使い分けるなど、企業が多様な戦略をとれるようになったことも大きな変化だ」と語った。
潜在成長力引き上げ、生産性向上が不可欠
武田氏は、こうした変化を背景に企業の名目収益や法人税収は伸びていると説明した。円安によって輸出企業の業績が押し上げられた面もあるが、価格転嫁を通じて収益を確保できるようになった効果も大きいと分析。コーポレートガバナンス改革の進展も日本株に対する海外投資家の評価を高めたとの見方を示した。
また、物価上昇の局面では、現金や預金を保有し続けるだけでは実質的な価値が低下するため、企業の成長投資への動機が高まるという。さらに、賃上げは労働市場にも変化をもたらすと指摘。「企業は優秀な人材により高い賃金を提示できるようになる。働く側も転職などを通じて能力に応じた評価を受けやすくなり、長年の課題だった労働移動が進み始めている」と述べた。物価の伸びを上回る実質所得の伸びを実現し、働く人々へ将来所得への期待を高めることが重要だとした。
最後に、日本経済を持続的な成長軌道に乗せるためには、潜在成長力を引き上げる必要があり、技術や人材を最大限活用し、付加価値を高める生産性向上が不可欠だと強調。その上で、国際情勢の変化に対応するための自律性の向上、AIやフィジカルAIなど付加価値を高める成長投資の拡大、日本の財政、金融政策に対する市場からの信認維持の3点を重要な課題として挙げた。
危機への対応を変革の力に
三菱総合研究所常務研究理事 武田洋子氏インタビュー
日本経済を持続的な成長へどうつなげるか。三菱総合研究所常務研究理事の武田洋子氏は「潜在成長力を高める改革が必要」と述べた。インタビュー詳報は次の通り。
武田洋子 三菱総合研究所常務研究理事
武田洋子(たけだ・ようこ) 1994年日本銀行に入行。米国ジョージタウン大学公共政策大学院修士課程修了後、2009年三菱総合研究所に入社。2012年政策・経済研究センター主席研究員(チーフエコノミスト)、2017年政策・経済研究センター長、2021年研究理事シンクタンク部門副部門長(兼)政策・経済センター長、2023年執行役員(兼)研究理事シンクタンク部門長、2025年10月より現職。現在、社会保障国民会議有識者会議構成員、新戦略策定のための資産運用立国推進分科会委員、産業構造審議会委員、財政制度等審議会委員、東北大学特任教授(客員)等を務める。
日本経済はすでに、需要不足よりも供給制約が成長の制約となる局面に入りました。従来のように需要を刺激しても、供給力が不足したままでは物価上昇率を強める可能性があります。潜在成長力は、労働投入、資本投入、全要素生産性(TFP)によって決まります。
成長の鍵は、技術や人材を生かして生産性を高め、より高い付加価値を生み出すことにあります。日本が進めるべき改革は3つあると考えています。
国際情勢の変化に対し自立性を高める
第1は、国際情勢変化に対し自立性を高めるための改革です。世界では米中対立が長期化し、安全保障と経済が切り離せない時代になりました。AIや半導体、エネルギー、重要鉱物は経済成長だけでなく国家安全保障にも直結し、企業経営の前提そのものが変わっています。企業は、効率性だけを追求する経営から転換しなければなりません。調達先を多様化し、サプライチェーンを可視化し、代替材料や代替調達先を確保するなど、供給網全体の強靱性を高めることが重要になります。
中東情勢の緊迫化でも明らかなように、最終製品に近づくほど、一つの部品や素材が不足するだけで生産全体が止まるリスクがあります。企業は個別の調達ではなく、供給網全体を可視化し見直す視点が必要です。弊社の企業調査でも、調達先の多様化に取り組んでいる、または早期に取り組むと答えた企業は約7割に上りました(=表参照)。
重要なのは、この危機を守りで終わらせないことです。日本は1970年代の石油危機を契機に、省エネルギー技術を飛躍的に発展させ、それを国際競争力へと結び付けました。今回も、エネルギー、安全保障、資源調達を巡る課題を産業構造改革の契機に変えなければなりません。原子力か再生可能エネルギーかという二者択一ではなく、双方を活用しながらエネルギー自給率を高め、省エネルギー技術も最大限伸ばし、自立性を高めていくことが、日本の競争力強化にもつながります。
付加価値を生む成長投資を増やす
第2は、付加価値創出型の生産性向上です。技術を活用し、新しい価値を生み出して、より高い付加価値を実現することです。政府の成長戦略は重要ですが、政府の資金はあくまでも呼び水です。成長の主役は企業です。設備投資、研究開発、人材投資を積極的に行い、新しい事業や技術の社会実装のスピードを上げていくことが不可欠です。企業収益は改善していますが、それに比べると設備投資や人材投資はまだ十分とは言えません。将来の競争力を高めるには、新規事業への挑戦や研究開発投資、人材育成への投資を優先していく必要があります。金融機関にも変化が求められます。目利き力を高め、技術力や事業の将来性、キャッシュフローを評価する融資へ転換することが重要です。ネットワークの活用など非金融力の発揮も期待されます。
大きな可能性を持つのがAIです。基盤となるAI開発では海外企業が先行していますが、日本がすべてを自前で開発する必要はありません。特化型のAIも活用しながら、日本が強みを持つフィジカルと融合させて製造業、建設、物流を変革するとともに、いずれは介護などの現場にも社会実装することで、人手不足の解消だけでなく、新たな価値を創出できます。AI時代に必要なのは、AIを活用する力だけではありません。適切な問いを立てる力、AIの結果を踏まえて決断する力、暗黙知を引き出すネットワーク力が一層重要になります。一方で、若手が経験を積む機会が減るという課題も生まれています。熟練者の経験や判断力を次世代へどう継承していくかは、日本だけでなく世界共通の課題になるでしょう。
市場からの信認を守る
第3は、市場からの信認を維持することです。通貨円や日本財政に対する信認は、日本経済の土台です。17分野の成長戦略を成功させるためにも金利の急上昇や過度な円安は避けなければなりません。財政への不安から長期金利が一段と上昇すれば企業の投資コストは増え、円安が進み過ぎれば輸入物価が上昇し、企業や家計に大きな負担を与えます。積極財政と財政規律は対立するものではありません。成長分野への投資を進める一方で、財政の持続可能性を高める社会保障制度改革の取組みや財源の確保も明確に示す必要があります。防衛費や成長投資の拡充、減税などが議論される中で、社会保障制度改革は避けて通れません。必要な投資は積極的に行いながら、長期的に増え続ける歳出構造の改革を進める。この両立こそ責任ある積極財政です。
金融政策も、市場との丁寧な対話が欠かせません。近年の円安の背景には、金利差だけでなく、日本の国際競争力や財政運営に対する市場の見方も影響していると考えられます。だからこそ、成長戦略と財政規律を両立させ、市場からの信認を維持することが重要になります。国際情勢変化に対する自律性向上、付加価値を生む成長投資、市場からの信認。この3つは別々の課題ではありません。危機を契機に産業構造を転換し、AIやフィジカルAI、研究開発や人材への投資によって生産性を高める。同時に、通貨円と財政への信認を守り、企業や国民が安心して投資や消費ができる環境を整える。この3つを一体で進めることができれば、日本は経済を持続的な成長軌道へと乗せることができると考えています。
世界に誇れる日本の強み
日本の1人当たりGDPが、かつての世界上位から順位を下げています。しかし、その一方で、日本には数字だけでは測れない強みがあります。長年にわたって世界から築いてきた信頼、文化や技術、品質に対する高い評価、そして豊かなソフトパワーは、日本の大きな資産です。自由貿易を重視する姿勢や、安定した治安、社会秩序も、日本の国際的な信頼を支える重要な基盤となります。日本には新たな価値を生み出し、再び成長へ向かう力があり、未来には十分な希望があります。
◇ 本連載では、専門家へのインタビューを通じ、経済の「現在地」と今後の展望を多角的に検証し、次の成長戦略を探る。
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