徒然なれど薑桂之性は止まず⑤ 「生産性運動三原則」の形骸化は何故止められなかったのか(その2)

企業別労働組合の「生産性運動三原則」に関する不信の芽生え


2000年代に入ってしばらくした頃、賃金の停滞が気になり始め、2つから3つの製造業大手組合の書記長等に「何故賃金が上がらないのか」を聞いてみたら、「生産性向上の成果の配分という原則に会社側が対応せず、賃金より雇用が大切だろう、との言説を弄(ろう)じつつ『生産性運動三原則』を軽視するかの雰囲気を感じる」という類の答えが返ってきた。

その回答の底流には、「会社側が『生産性運動三原則』を忘れたと言うのであれば、労働組合側だけが律儀に『生産性運動三原則』に縛られる必要があるのか」といった気分が感じられ、愕然とした。

生産性本部会長への懸念の伝達とその回答


この状況を放置したら生産性運動だけでなく、「日本的経営」の核ともいうべき企業別労働組合と会社との労使関係まで悪化しかねないとの懸念を感じ、私(当時は全労生(全国労働組合生産性会議)の議長の任にあった)から牛尾治朗日本生産性本部会長(当時)に対し、「生産性運動三原則」の形骸化と、ひいては「日本的経営」の危機を訴えた次第である。

牛尾会長からは「善処するからしばらく時間をくれ」との返事があり、半年後くらいであったか、「日本経団連の『経営労働委員会報告(会社側の春闘白書的文書)』の中に、『生産性運動三原則』は会社側にとっても大切な経営哲学の一つである旨を記載することになったので理解してほしい」と回答があった。

回答の効果は感じられず


しかし、その年、さらに翌年の賃上げ等の交渉における会社側の対処ぶりに顕著な変化は見られなかった。労働界の一部では「会社側の春闘におけるスタンスがそんな簡単に変わるものか。髙木は甘い」との批判もあったという。

時あたかも新自由主義的な経済議論に依拠するローコスト経営への指向が強まり、イギリスやアメリカにおける労働組合の弱体化が指摘され、銀行の厳しい融資姿勢や外国人投資家―特に物言う株主の台頭や、連綿と続くデフレ等もあり、経団連の「経労委報告」に「『生産性運動三原則』は会社側も忘れていません」というワン・パラグラフだけ表明したところで「生産性運動三原則」離れが止まる訳がないという批判だったのであろう。

かくして賃金停滞の歴史は続いていった。

「日本的経営」劣化下の労働運動の将来への心許なさ


「日本的経営」のエッセンスの一つである「生産性運動三原則」が形骸化し、賃上げもままならず、企業別労働組合に対する組合員の期待、そして社会的信頼のレベルは当然のことながら低下する。このような状況下で、日本の労働組合の在り方としてのジョブ型雇用論や中小企業も含めた日本型経営協議会待望論も議論の俎上に載り始めた。ひいてはドイツ型のデュアル・システム(産業を基盤とする労働条件等の労働協約交渉と、企業内の労使経営協議会による企業内マターの処理という役割分担方式)指向論も聞こえてくる。

このドイツ型の労働運動の在り方をめぐる議論については、再論したい。

(2024年6月15日号掲載、全30回連載予定)

執筆:髙木剛氏(連合顧問) 髙木氏のプロフィールとその他のコラムの内容はこちらをご覧ください。

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