徒然なれど薑桂之性は止まず⑦ 「生産性運動」が花咲かせた背景(その2)
日本の企業別労働組合の出自
1945年8月15日終戦。敗戦国日本はマッカーサー元帥率いるGHQの統治下で各般にわたりアメリカ的価値観に基づく民主化の道を歩むことになった。戦前・戦中は許されなかった労働組合の結成もGHQが強力に勧奨し、1945年後半以降爆発的な勢いで極めて特徴的な企業別労働組合という形での組織化が進んだのである。
企業別労働組合というか、当時は事業場労働組合の様相の濃い手っ取り早い組織化という傾向もあり、例えば組合員の範囲もいわゆる管理職的地位にある者も包含している組合も多かった。労働組合と称してはいたが、戦前の産業報国会の組織の焼き直しの趣もあり、ごく一部の経営層のみは非組合員とされたが、職員・工員合同、ホワイトカラー・ブルーカラー共同の組織という特性をもっていた。
時あたかもハイパー・インフレの時代、新生の労働組合の最大の課題は飢餓からの脱却のための賃金引上げであった。しかし、工場は焼け、原料入手にも苦労の多い民間企業の賃金交渉は難航し、ストライキ多発という状況を招来した。加えて官公部門の労働運動も過激化。官民併せて労使対立の厳しい状況下で、生産管理闘争指向を抑制すべくGHQの労働政策も変容し、もともと管理職組合員も多数包含されていたという側面と連動する形で過激な運動路線の修正というニュアンスで第二組合の結成、そして第一組合の少数組合化という流れが多くの産業・業種・企業に生まれた。
この第二組合結成から第一組合少数組合員化等の流れは、中央労働委員会会長を長期間務められた藤林敬三氏の著作「労使関係と労使協議制」で説得力のある説明が載っている。なお、1949年には、生産管理的な事業運営やストライキ多発型の労使関係を見直そうという意図で労働組合法が一部改正されるという経過もあった。
ドイツ型の産別労働協約指向の先細り
日本の労働組合法は、企業別労働組合という組織形態を法的に推奨している訳ではないが、先述した終戦直後の流れのなかで全日本海員組合を除いては産業別・職種別労働組合ではなく企業別労働組合の形態が大宗(たいそう)を占めるようになった。
もちろん、企業別労働組合が単独・独立して存在する訳ではなく、多くの産業・業種・職場で同一に分類される組合が集まり、日本版産別労働組合組織が形成され、今日に至っている。しかし、この日本版産別は、産業別労働協約という産業の結集軸を構築するには至らず、労働協約は単社単組間での締結というパターンが一般化している。
いくつかの産別で主要加盟組織が集団的に交渉し、賃金等主要な労働条件を決定している例がある。また一部の産別組織では、同一産業内での労働者の連携・連帯と強化という側面と同一産業内企業間の競争の側面との葛藤という難しい障壁を乗り越えようとして同一産業・業種間の操業・営業規制や統一闘争時のストライキ相互査察等に取り組んだ経過が残っている産別もある。しかし、今日では産別運動への糾合力の低下で産業別労働協約・産業別労使確認等の領域は非常に狭い。
どうしたらドイツのように産業別労働協約と企業への経営参加的内部労働市場対処型ルール形成の二本立てによる労使関係が形成できるのか、知恵の絞り所はないものか、特に経営側の英断が望まれるところである。
なお最近、労働組合法18条の「労働協約の地域における一般的拘束力」の条項を活用した労働委員会命令を得て、労働時間や賃金レベルの拡張適用をはかった例が、茨城県や福岡県で具体化された。今後の継続例が待たれるところである。
(2024年7月5日号掲載、全30回連載予定)
執筆:髙木剛氏(連合顧問) 髙木氏のプロフィールとその他のコラムの内容はこちらをご覧ください。