第26回 行政、教育改革、そして政治改革―社会経済国民会議<4>
連載「JPC 70th クロニクル」㉖ 行政、教育改革、そして政治改革
「増税なき財政再建」
わが国は、80年代初頭、財政赤字が累積。第二次大平内閣の増税策(一般消費税など)が白紙となり、民間から「増税なき財政再建」との声が高まってきた。
そうした中、第二次臨時行政調査会(いわゆる第二臨調、会長は経団連名誉会長の土光敏夫)が81年3月に発足。同年7月には「行政改革に関する第一次答申」を出した。
社会経済国民会議は81年11月5日、経済政策問題特別委員会が「行財政改革の推進と今後の予算編成に関する緊急提言」を発表。「行政改革の実現には、行政府自らの減量努力が不可欠である」として7項目を提言した。この緊急提言の発表を皮切りに社会経済国民会議は、行財政改革の実現に向けて波状的に全国的運動を展開していった。
行革実行断固要求
第二臨調は、「増税なき財政再建」の基本方針の下、82年7月に国鉄の分割・民営化、電電、専売公社の民営化などの基本答申を決定し、83年3月14日に最終答申を出した。
第二臨調最終答申目前の3月12日、社会経済国民会議は行革を進める市民の会など民間9団体とともに東京・渋谷区の代々木公園で「行革実行断固要求、三・一二代々木集会」を開催した。集会には約3万人が参加。「行革に反対する政治家を許すな」との決議文を満場一致で採択、首相官邸に出向いて総理大臣・中曽根康弘に手渡した。
行革国民会議等で実行後押し
最終答申後の3月24日、社会経済国民会議など4団体は、「臨調の問題提起をどう受け止めるか」をテーマにシンポジウムを開催。そこで第二臨調会長・土光敏夫を名誉顧問として運動を展開していくこと、民間の立場から行革推進を監視する「行革推進連絡委員会」の設立を決めた。
その後、委員会の名称は「行革国民会議」に改められ、7月11日に設立総会を開催した。行革国民会議は、「行政改革に対し、広い角度から議論を深める」「臨調答申の実行を国民ベースで監視する」などを目的として活動し、行革推進を後押しした。
85年4月、電電公社は単一の日本電信電話(NTT)として、日本専売公社は日本たばこ産業に民営化。国鉄は87年4月、地域会社6社と貨物1社の7分割・民営化された。
「教育問題国民会議」発足
社会経済国民会議は教育改革にも乗り出す。82年に教育問題国民会議(委員長=富士銀行相談役の岩佐凱実)を発足させ、3月23日に初会合を開いた。
国民会議は専門部会を設置(部会長=慶應義塾大学教授の村井実)。教育問題を、いわゆる教育関係者に委ねるのではなく、社会のあらゆる分野の人々の参加を得つつ検討し、社会全体に訴えていく開かれた組織を目指した。
83年12月には「第1回中間報告」を発表。「教育はどう変わってきたか」「激化する学校教育の矛盾」「教育神話を支えるもの」「教育改革への提言」の4章からなり、明治初期、敗戦後に続く「第3の教育改革」の必要性を強調した。
国民会議はその後、次々に中間報告や提言を発表した。
「政治問題特別委員会」発足
76年にロッキード事件が発覚。前首相が逮捕され、国民の政治不信は頂点に達した。社会経済国民会議は行革推進の国民運動を展開していたが、政治システムを根底から改革しない限り、抜本的な行政改革や経済改革は実現できないという認識が民間各層、各界に定着していった。
そこで81年秋、議長・副議長クラスで構成する政治問題懇談会を設置。翌82年4月、改組した政治問題特別委員会(委員長=日立造船会長の永田敬生)を発足させ、活動に乗り出した。
同特別委員会は82年6月、最初の「政治改革に対する提言」を発表。88年5月に発表した「議会政治への提言~戦後政治の功罪と議会政治の将来~」で、改革を推進する第三者機関「政治臨調」構想を提案して、活動に一区切りをつけた。
苦難の連続
88年6月、リクルート事件が発覚。国民の政治不信はさらに高まった。89年8月2日、社会経済国民会議議長の稲葉秀三と政治問題特別委員長・亀井正夫(住友電工会長)は自民党本部で、同党政治改革推進本部長・伊東正義、同本部長代理・後藤田正晴と意見交換を図った。
この結果、政治改革を進めるためには、世論を喚起しながら政党と国民各界の合意形成を進めるための新たな国民的組織が必要との認識で一致。これを受けて社会経済国民会議は各界に呼びかけ、同年10月9日、「政治改革フォーラム~政治改革に関する政党と民間各界の連絡会議」が発足した。
同フォーラムは91年にかけて8回開催。今日、日本政治が直面している問題は、戦後の政治行政システムの行き詰まりと制度疲労を色濃く反映したものであることを繰り返し指摘。しかし、世論の盛り上がりとは裏腹に、政治改革の道程は苦難の連続だった。ことに選挙制度改革は議員の当落や政党の消長に直結するため、強烈な抵抗と反対に直面した。
91年7月10日、海部内閣は政治改革関連法案を国会に提出。だが、9月30日、法案は審議未了・廃案となり、海部内閣は10月4日、退陣を表明した。
5年余りの歳月と5代内閣
政治改革運動は大きな挫折を味わったが、党派を超えた若手議員の間には改革運動の火は消えていなかった。彼らと協議した稲葉や亀井らは新たな国民運動組織の立ち上げを決意。92年4月20日、「政治改革推進協議会」(民間政治臨調)の発足総会と記念シンポジウムを開催した。会長に就任した亀井は「もはや政党の対応を座して待つわけにはいかない」として国民的な推進体制の構築を謳った「発足宣言」を披歴した。
「活動4原則」「政治改革基本方針」が採択され、4つの委員会を編成。委員会に対応する形で、超党派の若手議員98人が分野別の研究会を組織した。
民間政治臨調は同年11月10日夜、東京・日比谷野外音楽堂に4000人の一般参加者・80人の与野党議員を集め、「政治改革の実現を求める国民集会」を開催した。
会長の亀井、臨時行政改革推進審議会会長・鈴木永二、連合会長・山岸章らがあいさつに立ち、政治改革の早期実行をすべての政党に求めた。さらに超党派の議員による「中選挙区制度廃止宣言」が公表され、与野党192人の国会議員が宣言に賛同し署名した。
その後も苦難の連続だったが、94年1月28日、首相・細川護熙と自民党総裁・河野洋平は衆議院議長・土井たか子の斡旋に応じる形で会談。小選挙区300、比例代表200、比例代表の単位はブロック制などの各細目において修正内容に合意した。選挙制度改革を柱とする政治改革は、5年余りの歳月と竹下、宇野、海部、宮澤、細川の5代内閣を経て、実現するに至った。
社会経済国民会議や民間政治臨調がなぜ改革を進めるため国民各層や与野党をつなぐ土俵になり得たのか。それは、「労使中立の3者構成を基本とする生産性運動を母体とすることで初めて実現し得た」と言える。(文中・敬称略)
【参考文献】『生産性運動50年史』(社会経済生産性本部、2005年)/『RENGO ONLINE』ユニオンヒストリー「民間政治臨調編」
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