第5回 「昭和の遣唐使」―海外視察団派遣<上>
連載「JPC 70th クロニクル」⑤ 「昭和の遣唐使」
周到な事前準備

日本生産性本部の初年度(1955年3月~56年3月)の事業計画は、 ▽視察団の派遣と講師の招へい▽科学的管理法式および諸訓練の徹底、普及▽企業に対する直接指導▽啓蒙・宣伝――が四本柱。その中核をなしたのは海外視察団の派遣だった。
先陣を切ったのは1955年5月31日、羽田空港からアメリカに向けて飛び立った「鉄鋼視察団」だ。団長は富士製鐵取締役の佐山励一。メンバーは経営者だけではなく、労働組合幹部も含め計11人。目的は、米国鉄鋼業における総合的な経営管理(経営組織、販売、管理会計、労働、生産)の実情を視察することだった。
後に発刊された報告書の「序」によると、日本鉄鋼連盟会長が会員会社・労組からの推薦を踏まえ団員を任命し、団の編成を終えたのが3月上旬。視察団の最初の会合は3月18日に行われ、以後、5月上旬までに6回の会合を重ね、国内5工場も事前視察。調査項目を詳細に作り上げたことが記されている。
視察日程はICA(米国国際協力庁)作成のスケジュールに沿って6週間。これは英国生産性視察団を受け入れた実績の中で練り上げられた周到かつ効率的な視察方式だった。
視察団がサンフランシスコ空港に到着すると、ただちにICA派遣の案内者と2人の通訳がつく。訪問先での質疑応答は2人の通訳による同時通訳によって行われた。
日程が半ばを過ぎるころ、視察の感想を報告書の形で提出。日程が全部終了すると第2回目の報告書を提出。そして、ICA係官の司会で評価会を開催。これが終わってはじめて団は解散となった。
10年間で6072人派遣
鉄鋼視察団はアメリカの西海岸から東海岸まで企業や労働組合、政府機関などを訪問。中でも視察団が注目したのは、①経営管理組織が合理化されていること②インダストリアル・エンジニアリング部の活用③コントローラー制度(予算統制、原価管理、内部監査等)の確立④市場開拓への努力⑤良好な労使関係――だった。
海外視察団の派遣は10年間で延べ568チーム、6072人に及び、「昭和の遣唐使」とも呼ばれた。(文中・敬称略)
【参考文献】『生産性運動10年の歩み』(日本生産性本部、1965年)、『生産性運動50年史』(社会経済生産性本部、2005年)
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